野口 法蔵さんの出版記念講演会 (後編)     

 

 野口法蔵さんは1983年にラダックで得度され、インドで学究を積まれ、現在は臨済宗の僧侶として著作執筆、坐禅断食のご指導などに、ご活躍しておられます。  ホロトロピックネットワークでも、坐禅断食会の導師としてお世話になってきました。新刊『からだに効く坐禅』(野口法蔵著、七つ森書館)は、坐禅の方法や体質改善の効用など、さまざまな側面から坐禅を解説していますので、ぜひご一読をお勧めします。出版記念講演会でのお話の一部を、ここにご紹介します。(2014年7月28日、東京ウィメンズプラザ視聴覚教室)

 私はかつて、小乗仏教を目指していました。他人はしょせん変えられない、自分のことは自分で、自分の完成をめざしていく、という発想です。とはいえ、チベットの聖なる山にいても外の情報は入ってきますし、心をどうコントロールしても、「世の中はどうなっているのかな」と、気になるものです。そのままずっと山で生きることの意味を、私は考えるようになりました。  やがて、私は、大乗仏教に興味をひかれるようになりました。大乗仏教には可能性がどこまでもあり、その一つが、禅です。戒律を前提として信仰を備えるなら、禅はかなりの悟りに到達できると思います。

私は、僧侶になった31年間で、小悟と中悟のあいだの、中くらいの悟りを経験したことが、2回あります。 最初はリゾン寺でのことです。そのころ、私は、「この寺にずっといるのか」という漠然とした苦しみに苛まれていました。師匠に打ち明けると、「千手観音のお堂にこもって、解決するまで出てはならない」と告げられ、燈明木と仏さまに備えるバターを渡されました。  目覚めているときは、ひたすら五体投地を続け、倒れたらそのまま眠る。横に粉を置いて、水をかけて食べる。夜中に一回排泄のために外に出る以外は、ずっと五体投地を続けていると、10日後、光が見えました。 燈明の光でうっすらとしか見えなかった千手観音像が、明るいところにいるように、はっきり見えたのです。観音像は生身の仏に変わり、その十一面の顔は怒りの表情を浮かべていました。  それが慈悲を表していると気づいたとき、涙があふれ出ました。私は涙を流しながら、五体投地を続けました。私の涙で、衣がぬれ、お堂の床が水気を含みまし た。そして、いつしか私はぐっすり眠り、お堂を出たのです。見る人すべてが、光って見えました。壁も石も何もかも、すべてが生き物のようにやわらかく感じられました。そして、ブッダが経典で説いた、「人間の苦しみを滅する方法は、この世にある」というイメージが浮かびました。  ふつう、悟りは、「光になる」とか「自分が透き通るように感じられる」と表現されるもので、経典の一節が浮かぶという話は、聞きません。私にそのイメージが浮かんだのは、そのときインドにいたからかもしれません。  

 

 

 

 

 

 

 

 

                           ラダック「リゾン寺」写真提供 西谷雅史さん

それから私は、ビザをとる必要もあり、お寺を出て町に向かいました。デリーでは、出合う人みんなが、私をじっと見つめました。オールドデリーの駅前では、南京豆売りの人がいきなり私の前にひれ伏し、私が驚いて横を通りすぎると、追いかけてきて、またひれ伏しました。  インド人は精神的にいい状態にある人を見抜くことができるのでしょう。その後、ブッダガヤに寄ったところ、私は出会ったお坊さんに、「あなたは、いい状態に入っていますね」と指摘されました。  その後、私はスリランカの山中に6か月こもる世界大会に参加しました。呼吸によってどんな意識の状態まで到達できるか、挑戦したかったのです。  50度くらいになる、暑くて狭い独房のような場所で、坐禅を続けました。全身を蚊に刺され、黄色い衣は自分の血でどす黒く染まりました。呼吸法によって、その状態を「楽しい」、蚊を「かわいい」と感じていくのです。  インド、バングラデシュ、タイ、カンボジア、ベトナムなどから250人集まり、6か月最後まで坐禅したのは十数人でした。そこでは、目を開けながら幻覚のようなものを見ましたが、悟りの体験はありませんでした。

 24年前、私は坐禅断食とともに、五体投地も始めました。五体投地をしないと、心臓がもたない気がして、一日10時間以上、五体投地を続けていたこともあります。以前、断食の指導者が続けて何人も、心不全で亡くなった時期がありました。人を3日絶食させるのはとても不安なもので、不安は心不全を引き起こすのです。  最近は、断食中や海外滞在中をのぞき、一日数時間は五体投地をしています。かぎりある時間のほとんどを五体投地につかってきたのが、私の人生です。  7,8年前、五体投地をしているとき、バチカンで五体投地をする自分の姿が何日も浮かんだので、バチカンを訪れました。ちょうど、ヨハネパウロ2世が亡くなる直前でした。そのときは、ローマ法王庁の大臣のご好意で、聖フランチェスコの部屋で五体投地をさせてもらいました。  ローマ法王がよほどのときにこもる以外は入室できない、特別な部屋でしたが、五体投地させてもらったら、暗い部屋ぜんたいが、ぱっと明るくなりました。私は、その体験のために、バチカンで五体投地をしたのだ、と気づきました。13年ぶりの悟りの感覚でした。

 ところで、坐禅断食をすると宿便が出ますが、宿便が出るしくみは、自律神経のはたらきによるものです。少食にして、坐禅し、ゆっくり呼吸すると、交感神経が作用します。すると腸が動いて、宿便が出るのです。  腸は、脳よりも能力があり、記憶力もあります。断食を経験したら、その感覚を思い出しながら、ゆっくりした呼吸で坐禅すると、それだけで宿便を出すことができます。 坐禅といっても、背中が伸びてさえいればよく、体制は問いません。 横になっていても立っていてもいいのです。胸をふくらまさないように、下腹部でゆっくり呼吸すると、腸が動きだします。  お寺で一汁一菜の生活をしていても、なかなか悟れないのは、腸が動かないからです。腸が働くように、食事や呼吸をコントロールすることで、悟りに近づきます。  呼吸は、遅ければ遅い方がいいのです。1、2分に1回よりも遅い呼吸をすると、血中酸素濃度が下がります。口からの呼吸が不足して、皮膚呼吸の比率が上がります。  ゆっくり呼吸しながら、息をとめないでいると、腸を働かせる交感神経が活発になり、かなりの宿便が出ます。  坐禅は安楽の方法と呼ばれ、意図的に苦しい呼吸をすることは、邪道と考えられています。ただ、よけいな想念がないときは、呼吸は自然に、どんどんゆっくりになっていくものです。  呼吸をゆっくりにするための方法に、菜食があります。  200万人いるジャイナ教徒を見るとわかりますが、彼らは少食で菜食で、ゆっくりした呼吸をしています。病人は少なく、寿命は長いのです。ジャイナ教徒は断食をおこなうとき、目を開けて体を動かさず、姿勢を起こしたまま、鼻で呼吸します。 「ジャーナ」という言葉は、「禅」という言葉の語源でもあるのです。  ジャイナ教徒は、宝石商などの商人であることが多く、嘘をつかない、駆け引きをしないことで、知られています。彼らの経営理念は「儲け」ではなく、「徳を積むこと」にあります。人生の目的は「得を摘むこと」で、その手段が仕事だと考えるのです。  たとえカーストが低くても、その仕事に長けて極意をつかみ、「悟る」ことが、仕事の目的と考えられているので、ビジネスにぶれがありません。そのため、インド社会での信用があつく、お金持ちが多いのです。  そんな彼らが、唯一の修行法として選んでいるのが断食であることは、興味深く感じられます。  断食は、心と体をきれいにします。短くても質のいい座禅を覚えて、心地よさを 体験しましょう。なお、結跏趺坐は、神経伝達がスムーズになる姿勢です。結跏趺坐をしたとたんに、体は禅のモードに入ります。  とはいえ、坐禅そのものは、首の下が伸びていれば、成立するものです。本人にとって難しければ、結跏趺坐にこだわることなく、坐禅を体験していただきたいと思います。

〈おわり〉(文責 矢鋪紀子)

 

 

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