冠嶽山鎭國寺 村井和尚さんのお話 前篇 
湯川れい子さんからのご紹介 
私がとても尊敬する、そして色々なご縁を頂いている鹿児島の串木野の冠嶽山鎭國寺の村井和尚様をご紹介します。 
和尚様は鹿児島ご出身だという事と、国際基督教大学、高野山大学をお出になった事と、不思議なことが不思議でなく爽やかに起こるという事ぐらいのしかご紹介しようが無いんですが、そんなことを含めまして、どうしてあそこにあのお寺があるのか、どのような人生を送られたのか、その辺をゆっくりとお話をして頂いて、時間が流れていけば嬉しいと思っています。 

東シナ海を中国の方から渡って来ると1番最初に薩摩半島の外れに野間岳というのが見えるそうです。野間岳というのは、昔は姫媽岳と言って、姫媽神(ろましん)という中国の海の神様を祭っていたそうです。中国の人達が日本に来る時、何処に着くか分らないので、東シナ海を渡って来ると最初に見える富士山みたいな山をめがけ、そこに姫媽神を祭った。それを祭る人達はリンさんといって、今でもいるんです。(略) 
野間岳の次に東シナ海の方から日本に近づいて来ると見えるのが冠嶽です。南から見ると冠、帽子の形をしているわけです。奏の始皇帝が徐福さんという方を不老不死の薬を探しにやらせた時に、徐福さんがたどり着いたところが冠嶽で、その頂上に天を祭る壇を築いて、もう中国に帰らないということで冠を埋めたとなっています。熊本県の県境に紫尾山というのがあり、そこの紫尾神社には、「串木野の冠嶽は徐福が冠を埋めたから冠嶽と言って、この山は冠についていた紫色の紐を埋めたので紫尾という」と書いてあるそうです。徐福さんが来たということについて「そんな事はありえない、とんでもない話だ」となっとったそうですが、ちょうど三十年ぐらい前に中国で国勢調査みたいなのがあって、徐福さんという人が本当にいたという事が段々とわかって来て、徐福さんブームが起こったそうです。それで日本に二十箇所か三十箇所ある徐福さんの伝説が本当だったということになった。 
二千二百年前、いろんな職人さんや、男の子、女の子も連れて、三千人ほどで海を渡って来た。何十隻何百隻で来たでしょうから、あちこちにバラバラに着いて何十箇所に上陸しても、皆徐福さんの一行だと言っても不思議じゃない。徐福さんは本当に日本に来た。では、どこに来たんだろうか。 
徐福伝説の地ということで資料を取り寄せ調べても、この冠嶽だけが徐福さんが冠を埋めたところとなっているので、徐福さんの上陸地は冠嶽だろう、日本に最初に来て串木野に来たんだろう、と信じとるわけです。これがどうして私どもにとって大事かというと、徐福さんは秦の始皇帝が三千人を遣わすぐらいの道教のお坊さんだったわけですから、その非常に霊感の優れた方が山を選んで、この冠嶽に冠を埋めたんだということです。野間岳でも、開聞岳でも良かったはずですが、冠嶽を選んだということです。 
又徐福さんが日本に稲作を伝えたということになっています。今いろいろな古墳からそれ以前のお米が出ているので、徐福さんが伝えたのは非常に品種改良された上等の品種だったのかも知れないとも言われています。徐福さんが冠嶽から上の方に上がって行って死んだとされるところが和歌山県の熊野です。新宮に徐福さんのお墓が江戸時代に作られています。私が復興させて頂いた冠嶽のお寺のことも、仏教が伝わった頃に奈良の方には伝わっていたと思われるんです。そうじゃないと、どうして五百三十八年に仏教が正式に伝わって、その後何十年もせんうちに鹿児島の串木野の冠嶽にお寺を勅願で作ったのかなかなか理由がわからん。冠嶽の最初のお寺は五百八十年代に用命天皇という聖徳太子のお父君の勅願によって曽我馬子が興隆寺というお寺を建てたと言われています。奈良の法隆寺と隆が同じで、法隆寺を建てる頃に鹿児島に興隆寺を建てたんじゃないかと推測していますけど、わかりません。徐福さんの資料が徹底的に歴史から取り除かれておるので、天皇家との関係があるんじゃないかという方も多いわけです。(略) 
明治二年、明治政府は明治天皇の中心とする神道国家を作り上げようとした時に、廃仏毀釈を行い、天皇家と関係の無い神社は全部合祀したり、廃社になったり、お寺は徹底的に焼かれた。鹿児島では百パーセント無くしてしまった。鎭國寺の最後のお坊さんは霧島のえびのというところに逃げて死んでいる。霧島の白鳥というところのお坊さんは、冠嶽の近くの郡山というところに逃げて死んでいる。お寺が焼かれてもその後住職の顔が割れんというところまで逃げないといかんかった。徹底的な廃仏があって、明治政府は神道を中心に近代国家を作り上げようとした。しかし、岩倉具視一行が世界を回って先進国を見て日本に帰って来たが、「お寺だけを壊しよる、これはとんでもないことだ」となる。「日本は仏教と神道が両輪で日本の文化や伝統が出来ているので、仏教を壊して取り除いたら日本がガタガタになる」と言って、お寺を焼かんように命令が翻るわけです。鹿児島以外のところでは、「お寺を焼くようなことは出来ん」ってためらっている間に命令が変わったんで、お寺がもったわけですが、鹿児島は全部無くなってしまった。私がおります冠嶽は、百年間、お寺の無い、お寺の土地の無い、お堂も全部焼かれて、そしてお寺の中の宝物は近くの人がみんな持って逃げてしまっていた。昭和五十八年に私は高野山から冠嶽に入り、鹿児島中の古道具屋さんを回って、冠嶽に関係する物を持っていませんかと聞きまくったら、皆十年遅かったなあと言う。一人の古道具屋が鹿児島中の古道具屋から冠嶽の物を全部買って、熊本かよそのどこかに売ったと聞き、私はそこで昔のお寺に関するものを探すのをやめたんです。冠嶽の大雑把な歴史はそういうものです。 
どうして私が冠嶽のお寺の復興をするに至ったか。私は二十五歳で出家しまして三十三歳まで高野山におりました。大学は出ましたが、坊さん学校に入るお金は無くて、色んなお寺を転々と回ってただで働きながら(ここで一年間仕事させて頂きますからお葬式の拝み方を教えてくださいとか、護摩を二百回続けて焚かせて下さいとか)、最後に坊さん学校に勤めることになった。坊さん学校で教えている時に、私に坊さんになれといわれたお師匠様が、九州か沖縄で日本の南の方を拝む廃仏で潰れた大事なお寺を復興するようにと言われました。今私のお寺の執事をしている坊さんに、「廃仏で無くなったお寺の資料を全部探して送ってこい、私は高野山から拝むから」、ということで、拝んで見えたお寺の風景を詳しく伝えて絵に書いて渡して、ずっと回ってもらいました。冠嶽に関しては四回も五回も行ってもらって、「そんなところはありません」と言われても、いやそこにあるって言っていたら、五回目か六回目に「言うとおりの場所がありました」って連絡がありました。それで直ぐ本山を退職して鹿児島に行きました。 
地元の人達はもうお寺のことはわからなくなっていて、私が絵を書いてこういうところだって説明しました。下から見て「あそこだと思う」って指差したら、案内の自転車屋さんと電気屋さんが「俺達が山を知ってる、お前は高野山から来て知ってるはずないじゃないか」って怒られて、それから五時間も六時間も山の中を皆でさまよって、うちの執事さんがスズメバチに出会ってお尻をさされたりもした。結局一番最初に言った場所がお寺の跡だったので、最初に案内して下さった二人が信者さんみたいなものになって、そこにお寺を建てるんだあと言って、高野山で見た絵を書いて市役所と村の代表の人達に貰ってもらいました。 
農家の空き家を借りて住み始めましたが、水道も電気も電話も無い。川から水を引いていたらヘリコプターがやってきて農薬をまき始めたので、すぐ農協とか市役所に電話をして「これからお寺を作るんで、今ここに住みだして、川の水を飲んでいるから農薬散布をやめてくれ」と言うたら、すぐやめてくれたんです。鹿児島大学のダニ専門の教授が言うには、今冠嶽は、鹿児島県でダニがたくさんいる山の一位、二位になったそうです。ダニがいるという事は昔のままの昆虫の生態系がまだあるということです。最初の信者さんが電気屋さんと水道屋さんですから、川から水道を引いてくれました。でもお風呂が無いので最初の三年間は川で石鹸をつけてお風呂代わりにしました。ありがたいことに、その次の年に近くの入浴料百円の温泉に大晦日に入りに行った時、お風呂から出たら騒がしいので何かあったんですかと聞いたら、お正月のお膳を仲居さんが出そうとしてそのまま倒れてしまったという。私が行ってみたら、吐いたものが喉に詰まっていたので、すぐ女中部屋に抱えて行って中のものを吐き出させて人工呼吸してから帰った。翌日旅館のご家族が全員お礼に来て言うには、救急車の人が運んでいる時に、この処置をした人は誰かということになって、この人のおかげで仲居さんが助かったということになった。お正月に死人が出たらエライことになるので、「これから、あなたが連れてくるお寺の人は皆ただにします」ということで、それからもう二十年間ただで温泉に入っています。 
三年目にシャワーがついて、八年目にお風呂ができたんです。そして電気を引いて、電話を引いたのに、いつまでたってもお金を取りに来ない。NTTに電話したら、全然知らない人が払っておいてくれたという。どういうことですかということで、その方を訪ねて行ったら、「山に入ってお寺を作る坊さんがいるって聞いたんで電話代を払ってあげました」。何が何でもやめるわけにはいかなくなりました。そんな感じでお寺作りが始まったのです。 
鹿児島のお寺に行くということになって拝みだしたら、坊さん学校の八十人の教え子が皆いれかわり立ち代わり来て、「何を拝んでいるのか」と聞くので、「復興するお寺の場所は決まったけど、土地も仏様も無いので、まず仏様から拝むんだ」といったら、「そんなことが出来るんですか」というので、「できるかできんか、やってみよう」と言って高野山で拝みだしたんです。そしたら半月せんで、本山の廊下ですれ違った高野山のご住職の一人が「村井先生、鹿児島のお寺に行くのは本当なんか、どんなお寺か」と聞かれるんで、「建物も土地も仏さんもないんです」と言ったら、「それならうちにお大師さんが二体あるから一体持っていって拝まんかあ」と言われたので、待ってました!ということでお大師様を預かって、拝みだしました。そして昭和五十八年三月三十一日に退職するとき、そのお大師様を鹿児島に帰るのに十万円で買った車に乗せて、家庭教師をしてお世話になった教え子の家に立ち寄った。そしてお茶を頂いていたら、隣の部屋のふすまが開いていて、ちょっと見たらネズミがいた。「隣りの部屋にネズミがいますよ!」と言ったら、そこの人が「大事なものがあるから、すぐネズミを捕って下さい」と言われた。入ってみたら、大事なものもわからんし、ネズミもおらん。大事なものはなんかなあと思ったら、厨子に入った徳川家由来の毘沙門さんだった。そこの方が「うちの娘がお世話になったし、お寺を作られるんだったら、毘沙門さんに守ってもらったらええから拝んで下さい」と言われて、そこで毘沙門さんを預かったんです。お大師様が中国に行かれて「空に生きて満ちて帰る」っていう言葉があるんですが、八年いた高野山から帰る時に本当に嬉しかったのを忘れることが出来ない。 
そしてお大師様と毘沙門天さんを拝んで、空き家を借りて住みだした。電話がついたその翌朝、目が覚めて寝袋から見たら白い電話だった。確か黒い電話だったなあ、変だなあと思って近づいて見ると、電話がネズミのダニで真っ白になっていた。その前に掃除はしたつもりだったんですけど、床下にネズミが住んでいたんですね。床の隙間からダニが上がってきて、弱電流に集まるのかわからないんですが、真っ白になっていた。消毒屋さんに消毒してもらって、消毒の匂いを消すのに、お香をアルコールに溶かして家中拭いて、そんな感じでお寺がスタートしました。 
お寺が出来る時というのは、本当に仏様がされるので楽しい。お師匠様が私に南のお寺を作れとご指示があった時のお言葉が「仏様の邪魔をせんように」だった。「仏様の邪魔をせん」とはどういうことかいつも考えてきましたが、わからないままでもう二十年になりました。(次号に続く) 仏教伝道センターにて 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      冠嶽山を背にして。

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