2000年12月発行

特集 天外伺朗の謎に挑む!

●天外さんはいつ頃から「あの世」に関心を持つようになったんですか。

振り返ると、父の影響が強かったと思う。父はきわめて真面目な銀行員だったけど、不思議な能力があったし、宇宙の成り立ちについてもかなり理解していた。

●不思議な能力というと?

父は友人や親しい人が亡くなるとき、察知できたんだ。夜中に「今〇〇さんが死んだ」と言い出して、翌朝電報が届くことが何度もあったよ。素晴らしく光輝いた姿で夢枕に立ち、お礼を言うので、なくなったとわかるんだって。その人が健康で死の予兆が全くないときにもね。

それから、父はサイコキネシスの実験もしていた。瓶の上に消しゴムを置いて虫ピンを立て、その上に乗せた紙を念力で動かすんだ。ぼくも小学校低学年の頃はすごい速さで回せたし、いったん止めて逆向きで回すこともできた。でも、あるとき「人前ではしてはいけないよ」と父に言われてから、その能力はなくなった。

最近、同じ装置を作って実験したけれど、ちっとも動かないね。まあ、子どもの頃に比べて、今は不純だからかもしれないけど(笑)。とにかく、見えない世界があることは体験として知っていたし、あるのが当たり前と思っていた。

 そうそう、父の書架にはそういう関係の蔵書もけっこうあったな。僕は中三のときチベット僧ロブサン・ランパが著した『第三の目』に出会い、それを参考に自分でも瞑想を始めたんだ。

●天外さんはどんな子どもだったんでしょう?

 小学校低学年の頃は、熱を出してしょっちゅう学校を休んでいた。今でも体は強い方ではないし、だからこそ瞑想を必要としたのかもしれないね。でも小三のとき茅ケ崎に引っ越して野原を駆けまわるうち丈夫になって、それからは病気をしなくなった。

 当時の茅ケ崎はほとんど松林で家はまばら、子どもにとって天国だった。木に登ったり、泳いだり、蛇を捕まえて煮て食べたり、毎日暗くなるまで遊んでちっとも勉強しなかったよ。マラソン、棒高跳び、洋弓もしたし、いま思うと野生児だよね。

 今でも思い出すのは、友だち十人ぐらいで森の中にハンモッグを作ったこと。近所中を回って藁の縄をもらい、それを何十本と綯って太いロープを作り、数十人乗れる大きなハンモッグを作ったんだ。どんな高い木もてっぺんまで登れたから、上の方にも小さなハンモッグを作ったよ。

 当時は子どものグループがたくさんあって、戦争ごっこもした。すっかりインディアンになりきって(笑)木の枝で強力なパチンコを作って石やかんしゃく玉を打ったり、今思うとすごく危ないことをしていたね。幸い事故はなかったけど、かんしゃく玉が顔に当たって数日ひどい顔になることはあった。

 それから、小三から中二まで、ドイツ人の親友につきあってカトリック教会に通い、ほとんど毎日曜、教会でミサを受けていたことを覚えている。洗礼を受ける気は全くなかったけど、「神さまはほんとうにいるのかな。もしいるなら徴がほしい」なんて、毎日一生懸命考えていたなあ。

●そんな子ども時代は今の天外さんにどんな影響を及ぼしていますか?

 九十五年、あるセミナーで瞑想中、大きなハンモッグのビジョンが鮮やかに浮かび、涙が止まらなくなった。しばらくして、「ああ、あれがハイヤーセルフなんだ」と気づいたね。

 茅ケ崎の五年間は、本当に毎日生き生きしていた。あの時代に、僕の一生分の何かが培われたんだ。それで、僕は当時の思い出をもとに『子どもの頃には』という歌を作詞作曲した(風雲舎刊『意識学の夜明け』所収)。最近プロのジャズミュージシャンが歌いたいといってきたよ。

●天外さんは音楽がお好きで、ご自分でも演奏や作曲をなさいますね。

 高校時代から叔父のサクソフョンを借りてジャズバンドを始めた。お金がないから校長室の灰皿をシンバルにしたり、ジャズマンと親しくなってバーに出入りしたり(笑)、見つかったら退学だったね。バンドの名前は「RagPickers」(ボロ拾い)で、仲間とは墓場で練習していた。演奏会ではホームレスの恰好をしていたよ。(笑)。

 高三のとき、伊勢湾台風で校舎の屋根が飛んで数か月休校になり、バンド仲間で「伊勢湾台風チャリティーコンサート」をしたこともあった。仲間の半数は受験勉強を理由に参加しなかったんだけど、おもしろいことにコンサートをしたメンバーは全員現役で大学に合格したのに、出なかったメンバーはみんな浪人した。そのとき「人生は遊んでいる方がいい」というレッスンを学び、この年までそれを実践しているってわけ(笑)。

 ジャズは大学でも続け、「HotJive6」というバンドの初代バンマスになった。資金は全部自分たちで調達したよ。大学一年のとき、友だちが当時人気だった「トリスおじさん」をベニヤ板で作ったら、サントリーがお酒とバーの道具一式をもってきてくれた。それでみんなで学校でバーを開き、ドラムセットとベースを買ったんだよね。そのときベースを担当した友人とは、いまでも毎年二回ぐらいライブハウスで一緒に演奏している。

●商才がおありだったんですねえ。

 高校のときは授業をちっとも聞かずにノートに先生の似顔絵ばっかり描き、学園祭で売って儲けたこともあったし(笑)、大学時代は仕送りはほとんどなかったけど、自分たちが音楽を演奏するパーティーのチケットを売ったり、トラック運転のアルバイトをしたりして稼ぎ、自家用車まで買ってかなりいい生活をしたと思う。

●グライダーにも熱中したと伺っていますが。

 高一の夏休みに、中日新聞主催の学生航空連盟に応募して霧ヶ峰に出かけ、グライダーを始めたんだ。長期休みには合宿に出かけて飛行場で飛び、土曜日にはグライダーがある別の高校まで自転車で一時間かけて通い、河原で飛んでいた。

 大学に入ってからは、読売新聞後援の学生航空連盟でグライダーをした。僕は運動神経はそんなによくないんだけど、グライダーの才能はあったと思う。上昇気流をつかむ感覚がいいんだよね。当時、「獲得高度千メートル」というのは教官でも出来る人は少なかったんだけど、僕は十回以上飛んだ。

●空を飛んでいて危険な目には遭われなかったんですか。

 僕自身は事故には遭わなかったけど、大学二年のとき三機で飛んでいて、僕以外の二

機がぶつかった事故があった。一機は羽根が一メートルももげたまま着陸できたけど、もう一機は羽根の根本にぶつかったため空中分解して、パイロットは即死した。

 僕はぶつかった瞬間は見なかったけど、一機が飛行場の方に下に下りていくのは克明に見えたし、もう一機が破片をまき散らしながら下りていくのもちらりと見えた。でも、友だちが死んだなんて考えてもみなかった。不思議なくらい心は澄んでいたけど、一種のパニックだったんだね。

 落ちていったグライダーの破片が僕を追い越してひらひら舞い上がっていき、大事故が起きたというのに、「ああ、きれいだな」と思ったことを覚えている。ふつう上昇気流の旋回はすごく神経を使うんだけど、そのときはトランス状態になっていて、手足が自動的に動いてしまうんだ。下りなくてはいけないとわかっていたのに、教官から「下りてこい」という指示を受けるまで、僕はずっと上昇し続けた。横滑りで高度を落としたときはじめて、事故の実感がわいて震えたよ。

●それでもグライダーをやめなかったのですね。

 事故の後はしばらく全員が飛行停止になったけど、また飛べるのを待ちかねていたね。そして大学四年のとき、「直線距離五十キロ」に挑戦したんだ。いまのグライダーは八百キロぐらい飛ぶけど、当時はとても難しくて、僕が日本国内で四人目ぐらいだったんだよ。東京湾を横断して房総半島真ん中まで、五十八キロ飛んだ。

 ところが、教官が恐くなってしまったんだね。後から「そんな飛行は許可しなかった」といいだし、僕は査問委員会にかけられて飛行停止という懲罰処分を受けた。それがきっかけでグライダーをやめたんだ。

●ひどい話ですね・・・。

 この事件は、僕にとってすごいトラウマになった。でも、それが後にCDを開発する原動力になったと思うね。仕事をするときは、トラウマは力になる。だからトラウマが必ずしも悪いわけじゃないんだ。

 飛行停止になってからは、大学にこもって音声確認をテーマにした卒論に取り組んだ。一生懸命だったからすばらしい出来になり、ベルギーの大学から奨学生として留学しないかと誘いを受けたくらい。

 とはいっても、僕はそれまでほとんど勉強していなかったから、卒業のときの成績は後ろから数えた方が早かった(笑)。だから、就職担当の教授には驚かれたけど、当時まだ小さかったS社で営業職に就こうとしたんだよ。でも、入社のとき卒論のコピーも提出したら、それが評価されたのか研究部に入れられた。人生ってわからないもんだよね(笑)。

・・・次回では天外さんと精神世界の出会いについてご紹介します・・・

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