稲葉耶季さんの講演録
稲葉耶季さんの講演会が開催されました。稲葉さんは元裁判官で、在職中はヒマラヤに学校を建設する活動にたずさわり、退官後は僧侶になられました。また、秋山佳胤さんのご著書に「ふしぎな先生」として紹介された「不食の人」としても知られています。「死にまつわる様々なお話」というテーマで、これまでのご体験やお考えを語っていただきました。一部をご紹介します。(2017年1月19日、東京ウィメンズプラザ)
稲葉耶季さん: 1942年東京生まれ。67年東京大学経済学部卒業、69年同大経営学科卒業。都庁に勤務後、司法研修所を経て静岡地方裁判所判事補。93年那覇地方裁判所判事、97年インド北部に「ヒマラヤ稲葉学校」設立。99年琉球大学法文学部教授。2006年那覇簡易裁判所判事、09年名護簡裁判事の後、12年に退官。13年臨済宗僧侶に。15年よりインド・ナグプール佛教大学設立アドバイザーとして活動。著書『食べない、死なない、争わない』(マキノ出版)
―― 人間は、肉体だけでなく様々な何層もの体をまとった生命体であり、死とは、この可視的な肉体が、最も根源にあるセルフに向かって解き放たれることです。チベット仏教のエッセンスは瞑想ですが、瞑想とはまさに人間の本質、仏教的にいえば無の状態を体感するものとしてあります。
宇宙はもともと完全調和、すなわち無の状態を保っていました。その状態が揺らぎ、調和が破られたことによって、今ある宇宙が生みだされたわけです。しか
し、その調和はなぜあえて破られたのでしょうか。そしてそれは、誰の意思だったのでしょうか。
考えるほどにわからなくなりますが、彗星の発見者として知られる木内鶴彦さんは、三回死亡して蘇生しており、時空を超えた宇宙を体験して、完全調和の状態はきわめて退屈だったといいます。闇があるから光がわかる。すべてが光り輝いていると、光ということが認識できない。対比するものがなければ、そのよさはわからないのでしょう。
理論物理学によると、宇宙を構成する素粒子はつねに動き回っていて、それらが集合体となり、何兆もの天体や個々の人間が生まれたといいます。しかし、私にはどうしてもわからない。花一輪を眺めてもじつに繊細で美しいですが、この精緻なデザインを、いったいだれが考え出したのか。そして、こういう姿の私を、だれが思いついてデザインしたのか。考えるほどに、自分は何一つわかっていないと思わざるをえません。
―― 生まれる前、天から地上を眺めて親を選んでおなかに入る、という人もいます。私は、自分が何のためにここに来たのかわかりませんが、何をすると楽しいかはわかります。地球の雄大な景観を見ると、歓喜にあふれるのです。
私は在職中から世界各地を旅していますが、世界で最も美しいのはキルギスの天山山脈だと思います。雄大な起伏に富む草原の向こうで、天空に浮かび上がる、2000キロの大山脈。澄みわたった空と、得も言われぬ雲の中に、雪を抱いて立つ峰々の姿はじつに美しい。天山山脈を見ると、私は「生きていてよかった」と、全身から声が上がるほどの歓喜に満ちあふれます。
月光の下に浮かび上がるヒマラヤの峰の美しさも、すばらしいです。万年雪をいだいたヒマラヤの峰に、月光がさして銀色に輝くさまは、体がふるえるほど幻想的です。その景観を眺めると、「これを見るために地球に来たのだな」という至福に包まれます。
私はモンゴルにもときどき行きます。モンゴルの草原には、ユーラシア大陸を支配した殺戮の歴史の、阿鼻叫喚のエネルギーが払拭されていません。しかし、その星空はきわめて美しい。モンゴルで星を見ていると、私たちは宇宙にいて、宇宙には何億何兆もの星がつらなっているということが実感されます。
チベットで出合った、瑠璃色の花が一面に咲いている光景も、思いだされます。北インドの「花の谷」もすばらしかった。2~3000種類の花が一週間ごとに咲きほこるのですが、そのただ中に横たわり空を見あげたときは、「肉体をもってここにいてよかった」という至福感につつまれました。
私は何のためにここに生まれたのか、どこから来たのか、まだわからない。ただ一ついえるのは、心の底から魂がふるえるような感動を味わうために、私はここに来た。それは理屈でも想像でもない、実感としてあります。
―― 私は大学卒業後、都庁職員になりました。美濃部亮吉さんが都知事に就任したので期待していたのですが、伏魔殿と呼ばれた体質はそのままでした。さらに、当時は女性の社会的地位がとても低く、お茶くみを押しつけられるなど理不尽なことも多くあって、退職しました。人に見下されない職業は何だろうと考えたとき、子どもの頃、裁判官になろうと思ったことを思いだし、その道に進みました。
小学生のとき、私はある冤罪事件を知りました。最高裁が高裁に差し戻しても高裁が繰り返し死刑判決を出すために、ついに最高裁で無罪判決をするまで36年かかった事件でした。子どもだった私は、自分が裁判所の内部に入ることで、冤罪を防ぎたいと思いました。これまでの裁判官生活で、自分は間違った判断をしていないとは公言できませんが、そんな抱負がきっかけとしてありました。
そして私は、人生の多くの時間を裁判所で過ごすことになりました。裁判所は人と人とのトラブル解決のお手伝いをしたり、人や社会に迷惑をかけた人に一定の責任をとってもらったりする場所です。判決においては、判例や学説から逸脱してはなりませんが、その範囲であれば、裁判官の価値観に従って判断することになります。
とはいえ、人を殺したり盗んだりといった行為を、私が善悪としてジャッジするという意味ではありません。ただ、殺したり盗んだりしたという事実に対して、日本の刑法にはたとえば「死刑または懲役20年以下に処する」という取り決めがあり、それを当てはめていくだけです。
戦争においては、多くの人を殺した人が英雄とされるように、善悪は相対的な概念です。その意味で、裁判において、本質的な価値判断がもちこまれるわけではありません。しかし、殺すことによって生じる苦しみにどう向き合うかについては、考えさせられました。殺した人には、殺された人や遺族の苦しみに思いいたってくれるといいなという願いをもちつつ、対応してきました。
そういった裁判所での仕事は、自然の雄大さとはまったく無縁でした。生きていてよかったと思う瞬間をもてない職場で、なぜ日々を過ごさなくてはならないのかと、私はよく考えたものです。
裁判所は夏に三週間の休廷期間があるので、私は休み初日には成田空港に直行し、世界中を旅するようになりました。裁判所で日常のトラブルのただ中に首を突っ込んでいたからこそ、自然の景観に対する強い憧憬があったのでしょう。
―― この世には、よくわからないことがたくさんあります。山口神直先生という 80代の仙人のようなかたにも、不可解な話を伺いました。
山口先生は若い頃、軍隊での悲惨な体験から神も仏もないと感じ、山梨県の瑞牆 山の頂上で岩の上に座って、三年間を過ごされました。座っている岩に自分の体温 で生えた苔を食べ、くぼみにたまった雨水を飲み、服もぼろぼろになって裸同然の まま、「なぜこのような悲惨を地上に起こしたのか」と、神仏に問い続けたのです。
答えがないことに絶望した山口先生は、岩を下りて崖から飛び下りたのですが、500メートルくらいのところで止まり、気づくと元に戻されてまた岩の上に座っていました。錯覚かと思い、再び飛び下りても、やはり岩の上に戻されてしまうのです。3,4回繰り返して飛び下りられないことがわかると、山口先生は気が狂ったのかもしれないと思いながら、山を歩いて下りました。そのとき富士山がきれいに見えて、あそこに行きたいと思ったとたん、富士山の頂上に立っている自分に気づいたそうです。
チベットの僧侶は幽体離脱してあちこちに行きますが、山口先生は肉体ごと瞬間的に移動したといいます。どうしてそういうことが起きるのか、私にはわかりません。
もう一つおもしろいと思ったのは、インドにあるアガスティアの葉です。アガ
スティアの葉とは、5000年前に古代タミール語で予言を記されたヤシの葉のことで、100万人分くらいの量があり、自分の葉が見つかれば過去も未来も記されています。私はインドまで出かけて自分の葉を探し、そこには両親の名前、職業、きょうだいや子どもの数など、その時点までのことは99%正しく記されていました。
それから10数年たち、ふと思いだして読み返すと、そのとき予言されたことのいくつかは当たっていました。たとえば、きょうだいのうち一人が、私がアガスティアの葉を読んでか二年以内に亡くなることや、父が亡くなる時期などです。ただ、私が政府の高官であるとか、外国から多額の財産が入るとか、外れた予言もありました。
過去のことはほぼすべて当たっていたのに、将来のことでは外れる項目もあったのは、すべてが運命として決まっているわけでないことの証左ではないか、と私は思います。未来のある領域については、自由意思で決めることができるのでしょう。とはいえ、では「意志とはなにか」と考えると、何もわからないことに気づきます。
―― 私は93年に那覇地方裁判所判事として沖縄に赴任しました。沖縄赴任は、私のかねてからの願いでした。沖縄は1945年に地上戦の歴史があります。日本軍が本土決戦まで時間をかせぐ作戦をとったため、沖縄には10万ものアメリカ軍が上陸し、火炎放射器で焼かれた死体が転がるなど、目を覆う惨状となりました。今なお沖縄は、辺野古の海を埋め立て、世界最新の性能をもつ新基地の建設を強行されようとしています。
むごたらしく死んでいった人たちを弔い、悲惨なエネルギーに変化をもたらしたくて、私は沖縄赴任を希望していました。任期3年ではとても足りず、最高裁に1年の延長を申請して認められ、そののち横浜地方裁判所に転任しましたが、沖縄への思いは絶ちがたく99年に琉球大学法科大学院教授として、沖縄に戻りました。
その頃、私はジャスムヒーンさんというオーストラリア女性の著書を読んで、世の中にはものを食べずに生きている人がいることを知りました。ジャスムヒーンさんは31歳ごろから何も食べなくなり、当時18年ほど経っていました。食べなくても、プラーナをとるなら生きられるというのです。
プラーナとは宇宙の根源であり、生命エネルギーだと説明されます。しかし、宇宙とは何でしょう。根源とは何でしょう。そもそも、私は自分が何のために生きているのかもわからない。食べずに生きられるのはなぜかも、わからない。いずれにせよ何もわからないのだから、食べずに生きている人がいるなら自分もそうできるかもしれない、と理由なく思いました。
それから私は、水だけ飲んで、食べるのをやめました。すると、食べなくても死なないことがわかったのです。ただ、数か月で痩せてきて、学生に心配されるようになったので、5か月くらいで不食はやめました。いまは食べないほうがいい状況では食べませんし、食べたいときは食べますし、融通無碍の状態です。
―― 私たちは食べものを食べているつもりでも、実際はエネルギーを摂取しています。野菜は、土から養分を、雨から水分を、日光や風からエネルギーをうけとって育ちます。私たちは、エネルギーの集積としての植物を食べているのです。牛は草しか食べませんが、草に含まれる原子が牛の体内で原子転換されることで、肉や骨をつくりだしています。
野菜や動物の肉という媒介物がなくても、日光、水、空気中のエネルギーをとりこむなら、食べなくても生きていくことができます。形は違っても、エネルギーをとりこんでいる点では変わりありません。純粋なエネルギーを直接とりたいという内的衝動が出たとき、だれにでも不食は可能だと、私は思います。ただ、その内的衝動がないとき、理論的にできるはずと考えているだけの状態では、不食はできないでしょう。
では、その内的衝動はどこから来るのでしょうか。「自分の意思」とか「自分の意識」とかいいますが、「自分」とは何でしょうか。意思は自分が起こしているのではなく、何者かがそういう作用を起こしているのではないでしょうか。
食べるというのは、根源的な人間の欲求で、それを絶とうという意欲が内側から生まれるときは、すでにそれができる状態になっている、と私は思います。ただ、食べないと死ぬ、栄養不足になると死ぬという恐れが、体をそのように導いてしまうのです。
不食は、「プラーナで生きる」と決めて食をとるのをやめることであり、食べたいのに食を絶って修行する断食とは、まったく別のことです。私は食べなくてもプラーナで生きていけるとわかって、食べないことへの怖れが消えました。恐怖が一つ消えて、肝が据わった感じがします。
不食の人はだんだん増えていて、世界で10万人くらいといわれています。ドイツが最も多く5,6万人、日本では数百人くらいいるそうです。不食の人が増えているのは、大いなるものの意思がそうさせているのだと思います。人間の争いの根源には、食をめぐる問題があります。不食でも生きられるなら、争いの要因の一つはなくなります。
不食というわかりやすい形を増やすことで、大いなるものは人類の意識を変えようとしているのかもしれません。
―― 死んだらどうなるのかについては、さまざまな考え方があります。森田健さんが調査した「生まれ変わりの村」では、過去生の自分の名前や住んでいた場所などを具体的に覚えているケースがたくさんあるそうです。
一方、肉体の死とともに個性は全体に融合して、完全調和の状態に入ると考える人もいます。いわば大海のひとしずくとなるため、これが自分という区別がなくなるというのです。三回の死亡体験をした木内鶴彦さんは、「絶対に全体に融合しない」という強い意志があったためにこの世に戻ってこられた、といいます。
さらに、浄土宗やキリスト教では、人は死ぬと極楽または天国にいき、そこにとどまると思われています。
さまざまな説がありますが、死んだらどうなるかは自分の意識が決めるのだろうと、私は考えています。自分が「死ぬとこうなる」と思っているとおりのことを、体験するのではないでしょうか。ちょうど、理論物理学においては客観的な事実はなく、事象は観測者の意識の影響を受けるとされるように。
私は臨済宗の僧侶であり、臨済宗は転生という立場をとっています。ただ、私が臨済宗で出家したのは、出家を考えて相談した野口法蔵さんが臨済宗だったためで、たまたまのことです。私はクリスチャンの家に生まれ育ちましたが、それも私が選んだわけではありません。宗教はサムシンググレイトにアプローチする道筋で、生まれた文化や状況によって選ぶ道が違うだけで、この道でなければということはないと思います。
私はいずれの宗教も尊重していますが、根本的には、絶対的な他力の立場をとっていますから、阿弥陀仏の浄土に行くのかもしれません。
―― この人生、私はどこから来て、どこに行くのか。何をするために、ここに来たのか。……私にはわかりませんが、最後にひとこと言うとしたら、実にすばらしい生き方をしている人もいるということです。
私が感銘を受けたのが、去年94歳で亡くなった佐藤初女さんです。初女さんは「森のイスキア」という場をつくり、訪ねてきた人ひとりひとりを受け入れて、親身に話を聞いて、手づくりの食事を無償でさしだしてきました。そのとりくみに感謝する人たちの寄付によって、森のイスキアという建物が建ったのです。
初女さんは、あらゆる人の中に神の存在を感じ、絶対的な愛をもって、相手に接しつづけました。それはまさに愛を体現する生き方であり、そう生きる人にとっては、日々の暮らしの行為そのものが祈りとなるでしょう。
そういう人が存在したということに、私は深く感動します。生きる目的や生きがいは、どうでもいい。ただ、今そこにいて、すべてに愛を傾け、存在しつづける。そんなふうに生きたいと、私は思います。