雲黒斎さんの講演録(前編)
意識の変容という体験から得た悟りを、軽妙な語り口で伝える雲黒斎さん。人気ブロガーで、著書『あの世に聞いた、この世の仕組み』(サンマーク出版)はロングセラーとなり、全国でトークイベントを展開中です。黒斎さんのお話し会は、深い内容ながら笑いの絶えない楽しいひとときでした。一部をご紹介します。
(6月9日、東京ウィメンズプラザ)
―― ぼくは2004年、広告クリエイターとして会社勤めをしていたとき、ストレスから脳機能障害を起こしました。新しい記憶が固定できない状況になったとき、ふいに、人間の脳ではふつう感知できない領域の知性とつながる経験をしたのです。
別の領域の声に、語りかけられる感覚がしました。「おまえの記憶はどこにいったと思う?」と尋ねられたので、「脳だよね?」と答えたら、「NO!」と言われました。「ではどこにあるの?」と問いかけたら、「魂」という答えが返ってきました。もっとも、それは言葉での会話ではなく、ニュアンスが莫大な情報量として一瞬に入ってくる感じでした。
ぼくは精神世界や宗教を毛嫌いしていましたし、自分に何が起きているのかわかりませんでした。しかし、無我とかタオとか呼ばれる次元を垣間見るうちに、生死に対する感覚が変わり、人生に対して抱えてきた観念が崩れ去って、これまでの現実感のほうが幻想だと思うようになりました。そして、哲学、心理学、脳科学、降霊録といったさまざまな分野の本を読みあさり、古くからいわれる世界はこの感覚のことだった、と気づきました。
当初は混乱しましたが、2年ほどして落ち着いてくると、ストレスがごそっと抜けおちて、これまでイメージしていた幸せとまったく違う幸せがあることに気づき始めました。そしてわかったことをシェアしたくなり、2006年「あの世に聞いたこの世のしくみ」というブログを始めたのです。当時は守護霊という言葉がメディアでブームだったので、「守護霊と会う」という表現を使いました。ブログのアクセス数は瞬く間に伸び、テレビにも注目されて、ブログランキング一位になりました。
今も、ぼくは通常の意識と無我の境地が同居した、不思議な意識状態にあります。
―― 意識の変容を体験したことで、ぼくは人生に苦悩が生じる仕組みを知り、そのおかげで苦悩は激減しました。苦悩は「私のこと」として捉えるから深刻になります。しかし、「私」は存在しないとしたら、苦悩は消えてしまいます。
ぼくらはよく「私」「ぼく」と一人称を使いますが、そもそも「私」はどこにいるのでしょうか。たいていの人が、「私はここにいる」と自分の体を指します。では、体が「私」なのでしょうか。けれど、ぼくらは「私の体」といい、決して「私が体」とは言いません。つまり、体の他に、それを所有している何かがあるということです。
では、心が「私」を所有しているのでしょうか。心は脳が作りだしているという説もありますが、ぼくらは「私の脳」といっても「私が脳」とは言いません。しかも、人の細胞は日々生まれ変わり、7年周期で全て入れ替わりますし、それは脳細胞も同じです。
「私」とは、人生の岐路において選択し、人生をコントロールする何者かである、と考える人もいます。しかし、苦悩に陥っているとき、「苦しいから悩まない」と決定し、「悩むのをやめられる、私」は、どこにもいません。
ぼくらは、「私」が「私」をコントロールできないことを日々経験しています。
「私」は、自分の体さえコントロールできません。たとえば、体調を崩したのは自業自得だと気づいて、「この細胞を再生しよう」と「私」が思っても、そううまくはいきません。
傷口をふさぐのは自然治癒力、つまり「自然」の治癒力であって、「私」の治癒力ではありません。心臓の拍動、呼吸、消化、排泄など、生命維持に必要なことは、すべて自然の流れで起きていることで、「私」は関与していないのです。
―― ぼくらは、自然の力によって生かされ、その流れの中にいます。そしてその自然の力が「命」と呼ばれるものです。つまり、「私の命」があるのではなく、命が今こうして現れているのが「私」であり、命の側が主体だということです。「私が命を保有している」という考えは、理屈に合いません。
では、命はいつ誕生したのでしょうか。「いつ生まれたか」という問いに、多くの人は誕生日を答えます。けれど、誕生日はお母さんのおなかから出てきた記念日であり、胎児にも命はあります。
だとしたら、命の始まりは受精したときでしょうか。いいえ、精子や卵子も生きています。精子と卵子が合わさって「私」になったのなら、少なくとも、ぼくらは精子の命と卵子の命の、二つの命をもっていることになります。「一つの個体に対して一つの命がある」という考えも、明らかに間違いです。
―― 「私がいる」という錯覚が生じる最大の要因は、脳にあります。脳がさまざまな情報をインプットし、解析し、知覚するときに、錯覚が生じる仕組みがあるのです。ぼくは意識変容の中で、「知覚していることを知覚する」という感覚を体験しました。そして、宇宙全体の流れという側から、物事を捉えるようになったのです。
それは、赤ちゃんの知覚に似ているかもしれません。赤ちゃんは、外界をえり分けせずに知覚します。たとえば、皆さんは今ぼくの声を聞いていますが、ぼくの声に集中するほど、他の音は聞こえなくなっているはずです。実際は、隣の人の息遣いや、衣服がこすれる音もしていますが、ぼくらは成長するうちに、集中したいものにフォーカスを当てる回路が脳にできるため、えり分けて聞いているのです。
赤ちゃんは世界を丸ごと知覚しますが、おとなの五感はいわばサーチライトで、焦点が狭まっています。必要なものにスポットライトを当てながら知覚するので、自分が捉える感覚が「私の世界」となり、その感覚が現実だと誤認します。そのため、おとなは同じ世界にいながら、それぞれ別の現実を生きるようになるのです。
―― ここで再び考えてみましょう。「人生をよくしよう」とか「困ったことが起きないように」と願っている「私」の実体はどこにあり、そして、その「私」には、ほんとうにコントロール権があるのでしょうか。
ほんとうは、「私」に実体はなく、コントロールできる「私」も存在しません。にもかかわらず、コントロールできる「私」があるという錯覚にしがみついているために、「思い通りにならない」という苦悩が生じるのです。
「私という実体はない」と気づいたとき、ぼくは「南無阿弥陀仏」の境地に至りました。「南無」は「降参します」、「阿弥陀仏」は「自然のちから」という意味です。つまり、「自然に起こっている躍動に、おまかせせざるを得ません」という境地です。
―― 「幸せとは何か」と聞かれたとき、多くの人は「お金持ちになったら」「パートナーが見つかったら」「いい仕事ができたら」というように、「こうなったら幸せだろう」という想定について語ります。それは状況の話であって、そこで感じられる「幸せ」とは何かについては、話題にされていません。
幸せとは感覚であり、それを感じられるのは、「今」しかありません。幸せは、実感したときこそ幸せなのであり、幸せに限らず何かを実感するには「今」しかないのです。
では、幸せを求めて、ぼくらは何をしているでしょうか。幸せを実感することに意識を向けるのでなく、幸せを実現するために何かをしていないでしょうか。
「未来がああなったらいいな」「昔はよかったな」というときは、意識が未来や過去に向かい、「今」に向いていません。幸せを実感できるのは「今」という領域なのに、「今」に意識が留守になると、幸せを感じられなくなるのです。
―― 多くの人は、幸福を「実現(実感)/願望(理想)」という数式で表そうとします。つまり、「私の人生はこうであってほしい」という願望(理想)に対して、「私が感じている現実」という実現(実感)がどれほど達成されているかによって、幸福を感じるレベルが上下するのです。
たとえば、100の願望のうち実現しているのが20なら、幸福感は20パーセントと低くなります。そこで、たいていの人は実現していないものを補い、分子を大きくすることによって、幸福感を上げようとします。
もっといい仕事、いい給料、もっと楽しむ……自分が成長進化すれば、今感じている問題もなくなると期待しますが、それは錯覚にすぎません。なぜなら、成長すれば成長したぶんだけ、新しく大きな問題が現れるからです。「200達成した!」と思うとき、願望が1000に増えていたら、幸福感はいつまでも200/1000、すなわち20パーセントのままです。
けれど、「願望」という分母を下げるなら、「実現」という分子は変わらなくても、幸福感を示すパーセンテージは一気に上がります。ぼくに起きた意識変容では、この「願望」の部分が、いちどゼロになったとすると、人生には奇跡しか起きていないという見方になります。
願望を下げる、つまり欲をもたないことは、堕落ではないか、と考える人もいます。モチベーションを高めて人生を謳歌することにこそ、生きる醍醐味があるのでは、と。
確かに、現代の生活環境は、前の世代の人たちの「もっと便利で快適になるように」という努力のおかげで築かれました。しかし、機械化が進み、体を動かさなくてすむようになった現代人は、いまや運動不足になって、わざわざお金をかけてジムに通っています。皮肉なものだと思いませんか。
―― ぼくらは、ほんとうは「今」にしかいられません。いまだかつて、「今」でない時間など存在しなかったのです。にもかかわらず、不思議なことに、ぼくらの頭の中には「かつて」と「いつか」がある。
「時間はない」というのは、なにも精神世界の話ではなく、100年前から科学の世界で証明されていることです。アインシュタインの相対性理論は、「絶対的な時間はない」ことを示しました。時間は相対的な関係の中で生まれるものであって、誰にとっても同じ時間は存在しない、と。
時間は、相対するものがあってこそ、感じられるものです。「私」があるときは、同時に「私以外のもの」があり、相対性が生まれます。そのため、ぼくらが「私」という錯覚から離れられないかぎり、この相対性という時間の世界から、ぼくらは抜け出すことができないのです。
次回後編につづく・・