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日野晃さんの講演録

ホロトロピックネットワークのワークショップ、ナイトサイエンスで、日野晃さん (日野武道研究所主宰)に、武道を通して会得した人生のエッセンスをテーマに ご講演いただきました。波乱万丈のエピソードに引きこまれ、実演には驚きの声 があがり、武道の極意と癒しについてもお話を伺いました。 (8月31日東京ウィメンズプラザ)

★日野晃さん: 日野武道研究所主宰。1948年、大阪、天王寺に生まれる。17歳でスナック経営、19歳よりジャズドラマーになる。34歳より大阪・北浜で 武道の道場を構え35歳より和歌山・熊野に道場建設着手。48歳初著作「常識を打ち破れ、行動を起こせ」日新報道より出版。57歳からドイツ・フランク フルトに拠点を置くコンテンポラリーダンス界のトップ、フォーサイス・カンパニーで セミナー開始。解散まで10年間続く。この頃からヨーロッパ各国の招へいで武道 セミナー、芸術大学でセミナーを開き、現在に至る。著作多数、DVD多数、教育関係 での講師、企業研修多数、プロアスリート、格闘家、チーム指導多数、ダンス公演、 演劇演出多数。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

―― ぼくは大阪のやんちゃな下町で育ちました。ぼくにとってはすこぶる環境がよく、自分の原点になっています。大人にはつねづね「落ち着きのない子」と言われていましたが、やんちゃな子は他にもたくさんいました。
 最近、発達障害について聞き、自分に思い当たると思いました。学校を初めてエスケープしたのは小学校一年のときです。授業内容がさっぱりわからず、先生に「後ろに立っておけ」と叱られて、退屈だから教室を出てしまいました。
 算数をしている友達を見て「みんな天才だな」と思うけど、自分にはわからない。理解できないし、理解したいとも思わない。それはいまも同じで、人に言われたことをするのは嫌いだし、課題を与えられると拒絶してしまいます。
 母は芸者をしていて忙しかったので、ぼくは明治生まれの曾祖母に放りっぱなしで育てられました。自由に生きて、先生の言うことを聞かないので、通知簿は1か2ですが、ぜんぜん気になりませんでした。
 親は心配して家庭教師をつけましたが、ぼくが逃げ出すので、家庭教師は次々かわりました。3人目の先生はぼくの気持ちを見ぬいて、通天閣に遊びに連れ出してくれました。4年になる頃には、学校には半分行くか行かないか。遊びまわるう ちに、池で大人がボートを漕いでいるのを見て、ぼくも漕ぎたいと思い、3か月で大人 と勝負できるまで腕を上げました。
 ぼくは「こうしろ」と言われたことはしない代わり、自分からやりたいと思ったことを 達成するのは得意でした。人はもっと自由に、好きなように生きたらいいのです。

―― ぼくは身体の動かし方を、ヨーロッパの芸術学校などで教えています。これまで12か国をめぐり、来年はさらに2か国増えます。2005年、コンテンポラリ ーダンスのトップ、フォーサイス・カンパニーでセミナーをしたのがきっかけで、あち こちから声がかかるようになりました。
 ヨーロッパでは武道も教えますが、武道は伝統芸能で、いわば特別扱いです。クラシック・バレエの世界などで、体を使った表現を教えるほうが、西洋文化に真正面から切り込むことになり、おもしろいです。
 ヨーロッパでは、日本語のニュアンスを伝えるのが難しいです。たとえば、ぼくは 「感じる」という言葉を大切にしていますが、そっくり訳す言葉が見つかりません。  Feelというより、もっと「関係」というニュアンスを伝えたい。深いところに入りたいと 思うと、どうしても長い説明になってしまいます。

―― 「武道をしている」というと、「剣道ですか、柔道ですか」と聞かれますが、 武道はそのように説明されるものではありません。武道の教室で稽古することが、「武道をしている」ことでもない。武道は、教えたり教えられたりするものでも ない。喧嘩では勝ち負けがポイントですが、武道に勝ち負けはありません。武道は「道」です。
 ぼくは、伊東一刀斎、宮本武蔵、柳生石州といった武道の達人に憧れ、武道を始めました。一刀斎は1500年ごろに生まれ、鐘捲自斎(かねまきじさい)に弟子 入りして5年ほど後、自斎に「極意を得た」と語りました。自斎が「5年で極意を得ら れるはずがない」と否定すると、一刀斎は「極意は自分で会得するものであって、 習うものではない」といい、3回勝負して3回とも師に勝利しました。
 そのとき、一刀斎はこう語っています。「眠っている間に蚊に尻を刺されたら、頭でなくて尻を掻く。私は、無意識的な働きを活用したので<実>です。先生には『勝ちたい』という思いがあり、意識のほうを使っているから<虚>です」
 一刀斎は「体に備わる機能をすべて使うのが、剣の極意」とも語っていて、この二つの名言を、ぼくは灯台としています。
 宮本武蔵の「五輪の書」は何百回と読みましたが、読むほどに発見があります。武蔵はさまざまなことを書いていますが、それぞれは要素でありお互い関連しています。たった一つの動きを解説するために、武蔵は「五輪の書」一冊を著しました。
 たとえば、武蔵は歩き方ひとつ解説する。では、その歩き方を、一人でいるときも、 あるいは敵に囲まれても、同じようにすたすた歩くことができるか。
 関係の中でどう動くかが、ポイントになのです。生きることは、さまざまな係の中で 生きることであり、その関係の中において、武蔵はすこぶる自然で合理的な動きを 会得した。だから強かったのです。
 ぼくは、そういった達人をモデルに研究してきました。武道は何十年稽古したから 極意を得られる、というものではありません。自分がこれと思ったことは、すべてする。 本気で思えるか思えないか、それがポイントです。

―― ぼくは子どもの頃、体が小さく、やんちゃな下町では不利でした。中学に入って柔道部に入りましたが、先輩には投げられるし、屋上まで畳を運ぶのは重いし、3か月もたずにやめました。
 代わりに入った体操部では、先輩にあれこれ教えられるのは嫌いなので、友達3人と工夫して練習しました。大車輪をするにはどうしたらいいか。まず倒立ができなければならない。家の壁に向かって練習し、次は公園の低い鉄棒で練習しました。図書館の「体操競技」という本で、オリンピック選手の写真を見て、体の動き を頭に焼きつけました。二学期には、先輩に習っていた同級生はできなかったのに、 自主的に練習した3人は、3人とも大車輪ができるようになっていました。 

 一つ工夫してできるようになると、他もどうしたらいいかわかるようになります。 次の難関はバク転で、自宅で練習して3日でできるようになりました。それを仲間に 教えると、仲間もすぐ習得しました。どうしたらできるか考えるのはすごく好きでしたし、 ノウハウ作りも得意でした。
 中2のとき、大阪府の大会でぼくは個人総合7位になり、大阪市代表として、大阪、 京都、神戸の三都市大会に出場し、鉄棒で最高得点をたたき出しました。自分が「ほんとうにやりたい」と思って突っ込んでいくなら、誰にでも、何でもできる。 ストップをかけているのは、ただ常識だけです。
 フォーサイス・カンパニーでは、ほんとうにダンスが好きなのだな、という人たちに 出会いました。けれど日本のワークショップでは、ダンスが上手な人はいるけれど、 ほんとうにダンスが好きなんだな、と感じる人には、いまだ会っていません。その人 からダンスがあふれだす、という感じがしないのです。
 ぼくが学校教育の洗礼を受けず、「人に言われたことはしない」「自分が決めたことは絶対にする」という子ども時代を過ごしたのは、よかったなと思います。

―― 中学では体操で優秀な成績を修めたので、体操に力を入れている高校から特待生として入学させるという話もありました。ただ、高校に入学したら、次は日体大に進学して体育教師になるコースしかありません。ぼくは教師にはなりたくなかったので、高校進学はやめて、中卒で働き始めました。
 中卒が「金の卵」と呼ばれた時代で、求人欄を見て応募すると就職先はありましたが、長続きしませんでした。ぼくがほんとうにしたかったのは、水商売だった。そこで、母親の伝手で、京都の先斗町の喫茶店で一年半修行しました。
 蝶ネクタイにダークコートでカウンターに立っても、何をしたらいいかわからない。マスターがしていることをひたすら見習いました。いま思うと、ほんとうにいいマスターでした。どうしたらいいかマニュアルにすると、それ以外のすべてが削げ落ちてしまいます。
 3か月たつと、まだ16歳でしたが、近所のバーに手伝いに行かされ、いろいろなやり方を習うように仕込まれました。行った先では、掃除して、コップを磨いても、チーフが現れない。ママさんに「チーフはどうされたんですか」と聞いたら、「チーフはいないけど、日野ちゃんやれるでしょ」。
 ぼくはまだ、ジンフィズくらいしか作れない。何も知らない、何もできない。オードブルの作り方のいちばん簡単そうな本を買い、市場に走っていって、店の人に「これ作りたい」と相談し、本を見ながら料理して、オーナーさんに味見してもらいました。3か月のりきりましたが、それはその時代のおとなたちが、ぼくが芝居しているのをわかりながら、のってくれたからだと思います。
 大阪万博の前、高度経済成長期で、何をしても勢いのある時代でした。17歳では、バー開業のコンサルタントもしていました。どこかのママに「店を出したい」と相談されると、店のクラスや雰囲気を考え、道具を買って、ホステスを探すのです。
 いろいろなところから相談を受けた中に、物腰のやわらかいマスターがいました。打ち合わせのとき、マスターはいるのにママがいない。おかしいな、と思いながら話を進めると、オープンした店の場所は歌舞伎座の裏、東京でいう新宿二丁目でした。
 オープン当日もホステスさんが来ない。夜になって「おはよう」ってやってきたママは、声がちょっと違う。男性のママ、つまりゲイバーだったんです。情報がない時代だったので、バーを手伝い始めて3,4日、ぼくは混乱しっぱなしでした。カルーセル麻紀ちゃんがデビュする前で、きれいな子がたくさんいて、当時はブルーボーイと呼ばれていました。
 そのバーでバーテンをしていると、お客さんに口説かれることもしばしばありました。熱心に口説く人に「日野ちゃんは何がしたい?」と聞かれ、「店を出したい」と答えたら、300万円を貸してくれました。サラリーマンの月給が1万5、60 00円だった時代です。それを元手に17歳で1件目の店を出し、18歳で2店目を 出しました。19歳の頃には、ぼくはそうとう稼いでいました。

―― そんなある日、友達がダンスホールでアルトサックスを吹いているのを知りました。ぼくは中学の頃、ベンチャーズに夢中でギター少年でした。音楽で生きていきたいという夢を、水商売で忙しく忘れていたのです。先を越された、と焦りました。キャバレーでギターのオーディションを受けたら、そこそこ弾けてもジャズには無理と断られました。
 あきらめきれず、店は友達に任せて、ぼくはバンドボーイとしてドラムを始めました。最初は無給でした。ドラムを選んだのは、ゼロからの出発だからです。ゼロっておもしろい。上がっていって結果が見えるようになったら、その先は自分で自分のコピーをするようなもので、もういいかと思ってしまいます。
 思うように叩けるまで、3か月かかりました。言われた通りにするのはつまらないけど、最初は仕方ない。ジャズを知らなかったので、朝8時から夕方5時までジャズ喫茶に入りびたり、ぴんとくる音楽を探しました。3か月後、「これだ」と見つけたのが、ジョン・コルトレーン。そこからほんとうにドラムを始めました。一日10~12時間して、2,3年後には相当の人たちとセッションするようになりました。
 「好きなものを見つけるといい」という人もいますし、見つかったらラッキーですが、それより大切なのは、好きになれるかどうかです。ぼくにとってドラムは、好きなことというより、「これで食っていく」と意識して、やっているうちに 好きになりました。
 なにごとも、自分が思い立ち、自分にエンジンをかける方法を見つけられるかどうかにかかっている、とぼくは思います。

―― ドラムを叩くうち、ぼくのパワーはアメリカ人や黒人に負けると気づきました。何とかならないかと思い、近所にあった武道場に行きました。
 柔道の神さまと呼ばれる三船十段は、身長150センチ代なのに、自分より大きな人を投げ飛ばしています。道場の先生に「<柔よく剛を制す>というのは可能ですか」と尋ねると、「もちろんです」という答えに、入門を決めました。
 数か月通いましたが、一クラス20人くらい、全員が同じ稽古をする。大柄な人が強いのは当然です。「柔よく剛を制す」のタネはどこにあるのか、と疑問を感じました。よその道場も見学しましたが、どこに行っても大柄な人に有利な稽古ばかり。
 では、自分が「柔よく剛を制す」を実現しようと考えたのが、ぼくにとっての武道の入り口です。それから20年ほどして、実現できたかな、と思えるようになりました。
 身体能力や運動能力という言葉がありますが、ぼくは「体の知性」「知性的身体」と表現します。頭の意識をどれだけ外せば、体が体として動くか、ということです。走るときは、ここをこうして、こう動かして、と考えているわけではありません。
 中学生のとき、ぼくは「体操競技」という本の写真を見て、体操を学びました。目で見ることで得られる情報量は、言葉での説明よりはるかに多い。それをわざわざ言葉に置き換えていくから、話がややこしくなるのです。
 投げるときは、こちらが「投げたい」という意識になると相手も反応するので、力と力がぶつかってしまう。「投げたい」「離れたい」と意識するほど、体は緊張するし、 相手も意識する。「何かをしたい」という思いが、心に浮かんだらダメなのです。

・・・【投げの実演】 彼を背負うと、彼がここに乗っていることをぼくは感じる。 ぼくの体のどことどこに、彼のテンションがかかっているか、ぼくにはわかる。 投げるときは、それをずらしたらいいだけ。「投げたい」と思う必要はない。
・・・逆に、彼がぼくを「投げたい」と思ったとする。彼の「投げたい」思いがわかったら、ぼくは違うように反応するだけ。「逃げたい」と思う必要はない。そういうふうに、体はなっている。・・・

―― 体は天才です。その点、体をコントロールしている頭は、そうとう偏っている。頭をどのように外して、天才性を出していくか。武道は、そこに突っ込んでいく一つの方法であり、だから難しいのです。
 大切なのは、感じること。そして、「自分はいったい、何を感じているのか」と、深く感じていくこと。
 「私は」「私が」という意識があると、「あなたは」「あなたが」が出てきて、相手と対立します。「私」がなかったら、「あなた」もない。「私」がないなら、「あなた」もない。現実には「私」も「あなた」もいるけれど、「私」や「あなた」という 言葉は、いらない。戦争をつくるのは言葉ではないか、と、ぼくはヨーロッパで 
そんな話もします。
 フォーサイス・カンパニーのダンサーは多国籍です。前身はフランクフルト・バレエ団で、解散の危機にあったとき、嘆願の署名が世界中から集まり、規模を縮小して続けることになったのが、フォーサイス・カンパニーです。
 ぼくが講師として初めて呼ばれたのは再編成した直後だったので、みんなの気持ちはばらばらでした。でも、ぼくが「感じること」を教えたら、彼らには難しすぎて、少しずつチームがまとまっていきました。
 いまも10年前に教えたのと同じことを教えていますが、彼らはそれを通して自分を発見することを楽しんでいます。

―― ぼくの教えの入り口は、「体を使う」ことです。体を使うには、体を知っていなければならない。ほんとうに体を知り、体を動かすポイントを知っていたら、たとえ意識で「絶対に動かない」と決めていても、体は動くのです。
 ポイントは、変化にどう対応できるか。クラシック・バレエでは「軸をもて」といいます 
が、軸という概念はいらない。ただ、自分自身が軸になればいい。ほんとうに体を 知り、ポイントとポイントを合わせることができたら、ひとから「軸がある」ように見える だけのことです。
 武道には「丹田」という言葉がありますが、その概念に固定されてはならない。要は、敵がいてもぶつからないところにいたらいい。そのとき、「道」ができるのです。
 軸や丹田というと、一つの固定されたものをイメージしがちですが、いかにそれらを 自由にできるか、と考えなければ、それらを活かすことはできません。軸が大事なら、 軸にこだわってはいけない。軸にこだわったら、軸はできない。軸がないから、変化に 対応できる。ぼくの武道では、そういうことを学んでいきます。
 外国で身長2メートルの人を投げ飛ばすと、不思議がられます。力とは、体格や腕力で決まるのではない、全身運動です。全身はつながっているので、気づかないうちに全身運動している人はいますが、たいせつなのは「体をこのように使う」と意図して全身運動をおこなうことで、それによって力が生まれるのです。

・・・【バランスをとる/崩す実演】 体は繊細にできていて、ティッシュ一枚足で踏んだだけでもバランスは乱れます。ただし、バランスを崩しても、体はオートマティックにすぐ元通りになります。・・・

 「たたみの縁を踏むな」という教えがありますが、理由は二つあって、一つは武器が挟まっているかもしれないから。もう一つは、縁を踏んでいるとき襲われたら、バランスを崩されてひっくり返るからです。
 体は繊細にできているのに、とても荒っぽく扱われています。そして、荒っぽく扱われるために、バランスを崩しているのです。

―― ぼくは難病の方と関わることが多いです。集中治療室まで呼ばれて、家族に「何とかなりませんか」と言われることもあります。ぼくは神仏でないので、何もできない。なぜ、そういう状況に立たされるのか考えるうちに、武道家だからいのちと向きあわなくてはならないのだ、と解釈するようになりました。
 クローン病の中1の女の子が、おばあちゃんに連れられて和歌山の道場に来たことがあります。頭のいい子で、自分の病気について調べて知っていて、思春期の入り口でもあり、自死を考えるくらい動揺していました。
 ぼくは言いました。「いま、ぼくたちは山奥の峠にいる。きみが帰るときは幹線道路 を通るけど、トラックにぶつかって死ぬかもしれない。クローン病で死ぬかもしれない けど、それより先に、交通事故で死ぬ可能性もある。そうなったとき、きみの人生は、 つらいと泣いている人生で終わってしまうよ。それでもいいの?」
 するとその子はわんわん泣きだして、顔色に赤みがさしてきました。ぼくは続けて、「何も心配しないで、いましたいことをしてみなさい」と言い、送りだしました。
 そのことはすっかり忘れていたのですが、半年か一年たって、まるまる太った女の子が「先生、こんにちは」とやってきました。すっかり回復した、その子だったのです。
 ぼくは具体的に何かを指示したわけではありませんが、その子は何かに気づいたのでしょう。いのちをかいま見たのだろう、とぼくは思います。

―― ぼくの母は、膀胱癌で余命いくばくもないと言われてから、1年以上もみごとに生きました。義妹から、母が倒れたと連絡があって駆けつけると、ドクターがレントゲン写真を見せて「もって1週間です」と言いました。
 ぼくは末期癌の方たちにお会いしてきましたが、「いのちと向きあってほしい」という言葉がけをできずにいました。失礼にならないか、ためらっていたのです。ぼくは、母に、いのちと向きあってほしかった。
 病室に向かうと、母はやせ細り、こん睡状態にありました。おそらくドクターのいうとおり、1週間もたないでしょう。ぼくは母に、大声で話しかけました。「おかん、医者があと1週間で死ぬ、言うとんで。どないしたいんや!」
 すると、母はパッと目を開けて「死にとない」と答えました。ぼくは「死にとないなら、生きようや。おれの言うこときけ」と言い、<白いハンカチが癌を包んで、おしっこと一緒に出ていく>という、簡単なイメージを教えました。
 一週間後、母は意識が戻っていて、三週間後には泌尿器科のある病院に 転院しました。抗癌剤はいっさい断り、栄養だけ点滴するうち、歩けるようになり、 食べられるようになって、半年後には医者の反対を押し切って退院しました。
 ぼくは義妹に、母には身の回りのことは自分でさせるように言いました。母は買い物も炊事も自分でおこない、長唄の会に参加したり、懐石料理を食べにいったりしていました。ぼくは母に、「いつかは死ぬ。ただ、いま死なないだけや。おかんが生きているのは、癌の人たちの勇気になるから、近所を歩き回れや」と言いました。
 母は二週間に一度、抗生剤をもらいに通院していました。あるとき違う薬を渡され、怪訝に思いながらも服用してしまいました。後からわかったのですが、その薬には尿毒症を併発する副作用がありました。
 母は腹膜炎を起こし、再入院しました。ぼくが「おかん、どうすんねん?」と 尋ねると、母は「もういい」と答え、ぼくは「わかった」と言いました。そして三日後、 母は亡くなりました。
 亡くなるとき、母は「ありがとうね」という言葉を遺しました。母の人生の何もかも 詰まった、「ありがとう」でした。ぼくがほんとうの意味で、母と交わした初めての 言葉だったと思います。母は、何かがどうだから「ありがとう」というのではない、 ほんとうの「ありがとう」の意味を教えてくれました。
 癌で倒れ、いのちに真正面から向き合ったとき、母の人生が始まった。それから亡くなるまでの約一年が、母にとっての一生だった、とぼくは思っています。

―― 昔の武道の達人が、武道の達人になったのは、いのちに向き合い、そこにこそリアルな生があると気づいたからでしょう。いのちと真正面から向き合った人の、そこからの人生はすごいです。
 全身転移から一年たち、余命わずかと宣告された前立腺癌の方が、回復をとげたこともあります。相談を受けたとき、ぼくはかける言葉が見つからないまま、「癌ということを忘れてください」と伝えました。その方はしばらく考えて、「わかりまし た」と答え、それから2か月後、「完治した」という報告を受けたのです。
 ひとの本気は、すごい。いのちと向きあったとき、ひとは変わります。たいせつ なのは、意思の方向なのだと思います。
 十二指腸癌の友人も、いちどは驚くほどの回復をみせました。その後、急に悪化して亡くなりましたが、奥さんは「元気なときはワンマンな人だったけれど、さいごの一年は二人で手をつないで海岸を歩いて、恋人のように過ごせた。それだけでも、私はよかったです」と言っていました。
 いのちの終わりは、だれにも平等に訪れます。ぼくだって、この先どうなるかわからない。どうなるかわからないことを不安に思うのではなく、わからないのだから好きなことをしよう、と結論しています。
 ぼくはお医者さんや医学療法士さんを対象に、体を感じるセミナーも開催しています。あるお医者さんは、「昔は人をよく診る医者が名医だった。いまは機械
を見るのが名医になっている」と言いました。
 いまの病院は、人を診るというより、病名とデータを見ているように思います。不調に対して、こうすればこうなる、という術ではなく、関係をととのえることによって治ることに、気づいてほしい。厚生省の管轄とは違うところで、医療を変えていきたいです。 

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