白石豊さんの講演録
新年第1回のナイトサイエンスは、メンタルトレーナーの第一人者、白井豊さ んをお迎えしました。白石さんはこの30年間、トップアスリートのメンタルサ ポートを行い、2006、2016年の日本ハムの日本一や、サッカー日本代表岡田武史 監督の活躍に貢献しました。
「空のF1」レッドブルエアレース・ワールドチャンピオンシップで年間王者
に輝いた室屋義秀選手は、白石さんの指導によって「いい成績が残せただけでな く、生活が変わり、人生が変わりました」と語っています。
「本番に強くなる心」の追究を始めてから半世紀に及ぶエピソードの数々は、 とても興味深いものでした。 (東京ウィメンズプラザ、2018年1月11日)
◆白石 豊さん プロフィール
1954年、岐阜県生まれ。福島大学名誉教授。現朝日大学保健医療学部教授。筑波大学大学院体育研究科修了。専門はスポーツ運動学。独自のメンタルトレーニング理論により、女子バスケットボールの五輪日本代表チームをはじめ、スピードスケート五輪銀メダリストの田畑真紀選手、2005年最多勝を挙げたプロ野球の下柳剛投手や剣道で日本選手権三度優勝の内村良一選手など、数多くのスポーツ選手を指導。さらに、2010年サッカーワールドカップ日本代表、岡田武史監督のチームづくりをサポートした。主な著書に『実践メンタルトレーニング ゾーンへの招待』『心を鍛える言葉』『本番に強くなる』『勝利する心 東洋の叡智に学ぶメンタルトレーニング』『日本人を強くする』などがある。
―― 私は46年前、18歳のとき、自分の心を強くするためにメンタルトレー ニングの勉強を始めました。そしてこれまで30年間、様々な種目のアスリートにメンタルトレーニングしてきましたが、原点は体操競技にあります。
アスリートが試合前に緊張するのは当然ですが、その緊張をコントロールし、 親しく利用できるようにならなければ、勝利できません。私は1980年に選手を引退してから、筑波大学の男子体操部のアシスタントコーチになりました。13年間も日本一から遠ざかっていたチームでしたが、選手たちがよくついてきてくれて、コーチになってわずか4か月で日本一になってくれました。それからも5年間で3回の日本一を経験できたのです。
ここで、日本の男子体操競技の歴史を、映像を交えて解説しましょう。日本の 男子体操競技は、1960年のローマオリンピック初優勝から、東京、メキシコ、ミュンヘン、モントリオールと、五大会ずっと金メダルを獲得してきました。
男子体操は「ずっと強い」という印象をもたれている方も多いですが、戦前の 日本は体操競技の実績がなく、情報もありませんでした。
後に「日本体操協会科学研究調査部」の初代部長になられた金子明友先生は、1952年、戦後日本が独立国家として初めて参加したヘルシンキオリンピックで、非常に悔しい思いをされました。「床運動」で何をしたらいいかわからず、戦前の「徒手体操」を行って、もの笑いの種になったそうです。
金子先生は、ソ連の選手のバク転や宙返りを見て、「これが床運動なのか」と 衝撃を受けられました。日本は団体5位で、優勝したソ連とは演技の美しさも難 易度も格段の差がありました。
このとき、金子先生は、ソ連に追いつき追い越して、戦争で負けた日本人を元 気にしようと決意されました。そして、16ミリフィルムでソ連やヨーロッパの 強豪選手の演技を撮影して動作の一つ一つを克明に分析し、世界最先端の技を細 かいところまで真似するとともに、独自の改良を加えていったのです。
―― それらの成果により、男子体操競技は、4年後の1956年のメルボルンオリンピックで団体銀メダルを獲得しました。さらに1960年のローマオリンピックでは、金子先生が監督となって、念願の金メダルを獲得しました。僅差での勝利でしたが、日本政府と日本オリンピック協会からの祝電には、「次回の東京オリンピックでは、メダルを5個とってほしい」というメッセージがったそうです。
大きなプレッシャーの中、金子先生はオリジナリティあふれる世界でだれもやっていない技を作るしかないと考え、その後3年かけて選手たちと相談しながら、床運動、あん馬、つり輪、跳馬、平行棒、鉄棒といった男子体操競技のすべての種目で日本独自の必殺技を完成させました。
男子体操競技の技は現在A難度からI難度までありますが、当時はA、B、Cしかありませんでした。そこでCを超える技という意味で、金子先生はそれらの技を「ウルトラC」と名付けました。余談ですが、ウルトラCが有名になったために「ウルトラQ」という怪獣番組が始まり、後の「ウルトラマン」が誕生したのです。
「ウルトラ」とは、ドイツ語で「超」「スーパー」という意味です。体操競技
の国際審判員の公用語は、2000年までドイツ語でした。金子先生はドイツ語、ロシア語、フランス語、英語に堪能で、審判業務はすべてドイツ語でこなされていました。
後年、私は金子先生の弟子になり、いろいろなお話を伺いました。先生が研究 室でウォッカをストレートで飲まれ、「ロシアと戦っているんだ。あいつらが飲 んでいるもので酔いつぶれてどうする」とおっしゃっていたのが印象に残ってい ます。
―― そして1964年の東京オリンピックで、男子体操競技はウルトラCの技 を連発して団体二連覇を達成し、エース遠藤幸雄さん(大学の先輩)は個人総合で金メダルを獲得しました。東京オリンピックで日本は16個の金メダルを獲得しましたが、そのうちのじつに5個は男子体操競技だったのです。
その様子をテレビの向こうで夢中になって眺めていた子どもの一人が、当時小 学五年生の私でした。野球少年だった私は、「世界に出るには体操だ」と、オリンピックの閉会式と同時にバッドとグローブを放りだして、バク転の練習に夢中になりました。
はじめは怖かったですが10日で5回連続できるようになり、学校のヒーローになりました。そして体操選手を志すようになったのです。そして中学、高校と体操を続けて、1972年ミュンヘンオリンピックの年に、東京教育大学に入学しました。
東京教育大学、現在の筑波大学は、男子体操でオリンピックチャンピオンを輩出することで有名でした。小野喬さん、遠藤幸雄さん、加藤澤男さんなどといったゴールドメダリストは、すべて東京教育大学の先輩です。
ミュンヘンでは、日本男子体操は16個のメダルを獲得して、先輩たちはメダ ルをじゃらじゃら持ち帰り、私にも触らせてくれました。男子体操は、まさに黄 金時代の真っただ中にあり、その活躍は高度経済成長を迎えた日本の勢いを象徴 するかのようでした。
憧れの大学生活でしたが、練習は非常に厳しいものでした。国立一期校に合格 するための受験勉強で体力が落ちているのに、入学直後から一日六時間の練習が 続きました。連休に入る前に私は椎間板ヘルニアになり、医者に「三か月は休養 が必要」と診断されました。
ところが、二年生の先輩に休部を申し出ると、その場で診断書を破られ、「バカ野郎。ここをどこと思っている。20年間世界で不敗のチャンピオンを練習している体育館だぞ」と怒鳴られました。毎日体育館に来て練習を見学しろという
のです。
体育会系では、1年は奴隷、2年は平民、3年で天皇、4年になると神さまと呼ばれるほど、先輩の命令は絶対でした。東京中の医者を回りましたが、まったくよくなりませんでした。口の悪い人に「体育館のぼろ雑巾みたいだな」と言われ、顔も上げられず、毎日六時間ひたすら体育館に座り続けるのは、地獄のようでした。
―― この苦しい状況を何とかしたいと思った私は、図書館で本を読みあさるう ち、ソビエトの『スポーツマン教科書』という500ページの本を見つけました。その本の半ばを過ぎたあたりに、ローマオリンピック女子体操競技の金メダリスト、ラリサ・ラチニナさんの言葉がありました。
ラチニナさんは、ロンドンオリンピックでマイケル・フェルプスに記録を破ら れるまで、金メダル獲得最多の世界記録を50年保持した選手です。ラチニナさ んは、「私は体育館で厳しい練習をしています。でも、往復のバスや自宅のベッ ドの中で、頭でも体操の練習をしています」と語っていました。
私は中学と高校の六年間の部活動で、顧問の先生に「スポーツは体でやるものだ」と教えられていたので、ラチニナさんの言葉に驚きました。調べていくと「イメージトレーニング」という言葉が見つかり、東京教育大学には、スポーツ科学の各分野で日本のトップクラスの先生方がいらっしゃいました。私は『スポーツマン教科書』を持参してスポーツ心理学の先生のところを訪ねましたが、そんなことは研究していないと言われてしまったのです。
仕方がないので独学で調べると、良いイメージトレーニングを行うためには二つの条件があることがわかりました。一つは肉体のリラックスで、もう一つは精神の集中でした。
中学と高校の6年の部活動では、試合前に緊張していると、先生は「リラックスしろ!」と言いましたし、エラーすると「集中だ!」と怒鳴りました。「自信をもて。いいものをもっているのだから」とも言われましたが、生徒が「どうしたらそうなれますかと」ともし聞いたら「バカ野郎!そんなことは自分で考えろ!」と叱られたに違いありません。今から考えれば、先生たちもやり方は知らなかったし、50年近く経った今も、中学や高校で部活動を指導している先生は同じようなものだと思います。
―― イメージをコントロールする方法は、どうしたら学べるだろうか。さらに 調べていくと、キーワードは「自律訓練法」にあることに気づきました。
自律訓練法は、80年前、ドイツの精神科医シュルツが開発した技法で、自己 暗示を用います。人間はリラックスすると重感や温感を覚えますが、それらを暗 示によって導入することで、意図的にリラックスをもたらすのです。自律訓練法 は心理療法の一種として用いられ、現在でも日本催眠学会などではよく使われています。
自律訓練法のトレーニングは、第1週は椅子に座るか仰向けになり「右腕が重 くなる」と心の中で唱えます。酔っ払いや眠っている赤ちゃんを抱えると重く感 じるように、緊張が抜けているときは、物理量は変わらなくても重たくなるので
す。
第2週は「両腕が重くなる」、第3週は「両腕と右足が重くなる」、第4週は 「両腕と両足が重くなる」、第5週は「全身が重くなる」、第6週は「右腕が重 く温かい」・・・と続き、第10週に「全身が重く温かい」とイメージできるよ
うになると、実際に皮膚温も上がるようになります。
東京教育大学の学科目表をめくると、教育学部の大野清志先生の「心理療法の理論と技術」という授業があることがわかりました。その説明に「自律訓練法を用いて、ノイローゼ、対人恐怖、吃音の治療にあたる方法を学ぶ」とありました。大野先生は、後に日本催眠学会の事務局長に就任されています。
私が大野先生の研究室を訪れると、先生は「自律訓練法は心身相関疾患の治療 に用いてきたけれど、体育関係者が採用する時代になるのかね」と驚かれ、それ から毎週30分、研究室で個人的に懇切丁寧に教えてくださいました。
私は先生の指導のもと、自宅で毎日1,2回、10~15分、自律訓練法をお こなって終わった後の感覚を記録しました。このときの記録は、三年後に設立さ れた第一回日本スポーツ心理学学会で、大野先生が研究発表されています。
―― 12週くらいで自己暗示によるリラックス・集中ができるようになると、 イメージトレーニングに進みました。私が毎日見学している体育館では、折りピック二連覇のチャンピオンである加藤さんを含む、ミュンヘンオリンピック選手三人が練習していました。彼らの動きをよく観察して記憶にとどめ、帰宅したら自律訓練法でリラックス・集中してから、そのイメージをありありと思い浮かべるように、と大野先生からは言われていました。
それまでの私はヘルニアの痛みに苦しみ、体育館にいても目の前の選手の姿は 目に入らず、なんて辛いのだろうと下を向いていました。しかし、課題を与えら れたからには、うつむいてはいられません。
メンタルトレーニングでは、感情のコントロールというスキルも必要になります。「感情(emotion)をコントロールするには、しぐさ(motion)をコントロールせよ」という教えがあります。しぐさや表情、目線を成功者をモデリングして真似せよというのです。ですから、下を向いていては勝者にはなれないのです。
私が顔を上げて熱心にチャンピオンたちの動き観察するようになると、腰は治っていないのに、周囲から「あいつ、最近どうしたんだ? 表情がぜんぜん違うぞ」と注目されるようになったようです。
そして、ミュンヘンオリンピックの代表選手で、後に東京学芸大学名誉教授となる本間二三雄さんが「横浜にすごい先生がいるから、行ってみないか」と、声をかけてくれました。ミュンヘンオリンピックのチームドクターで、片山記念病院の院長だった矢橋健一先生に紹介状を書いてくださったのです。
矢橋先生の治療に週1回通うと、1か月で痛みはとれました。さらに、リハビ リには当時ジャイアンツのチーフトレーナーだった井上良太さんをご紹介いただ き、トータル2か月で全快して、翌年二年生で全日本選手権に出場することがで きたのです。
すばらしい方たちが18歳の小僧に本当によくしてくださったと、心からあ りがたく思います。私のこれまでの60数年の人生を振り返ると、私はすばらしい本や人との出会いによって、ピンチから何度も救われてきたように思います。
―― 東京教育大学を卒業後、私は筑波大学の大学院の1期生となりました。そこで金子明友先生の研究室で3年学んだ後、筑波大学の助手を務めることになりました。金子先生は私の選手としての限界を感じて、指導者としての道を勧めてくださり、1980年、私はアシスタントコーチとして選手の育成に当たることになったのです。
私がコーチになったときの筑波大学の男子体操は、低迷を続けていました。
筑波大学になってからは推薦入試の制度ができましたから、高校のインターハイで1、2位の選手が毎年入学し、4学年で8,9人、日本トップクラスの選手が揃っていました。コーチは金メダル8個を獲得し、オリンピック二連覇を経験している加藤さんです。施設も最新でしたので、最高の条件が整っていたわけです。それにも関わらず何年も勝てない理由を、金子先生に私に「なぜだと思うか」と問われたのです。
加藤澤男さんは、なにしろオリンピックで金メダルを8個も獲得した方ですから、ご自分にはたいへん厳しい人でした。しかし、選手には「自分のことは自分でやるのが当たり前」という方でした。これは当然のことなのですが、高校時代に合宿所で生活を厳しくコントロールされることで日本のトップにいた選手たちが、筑波に来たら生活についてはほとんど何も言われないので、次々とつぶれていっていました。その点を私が先生に申し上げると、先生は「その通りだ。お前は技を教えるコーチよりもまず学生たちの生活コーチとなれ。もう一つは、やって見せて教えるのでは、動きの違いを見抜けるコーチになれ」と言われました。
私は金子先生の指導を10年近く身近で学ばせてもらいました。先生は選手が失敗しても怒らず、「どこがまずかったと思う?」と尋ね、問答を重ねるうち、選手は自分の足りない点に思い当たります。先生はどこを直すべきか一瞬で見抜くのですが、あえてそれを指摘せず、選手自身に気づかせるのでした。
思い返してみても金子先生は、鋭い運動観察能力と優れたコミュニケーションスキルをお持ちでした。そのことを先生からは教えていただいたことで、私は様々な種目の選手の動きの違いを見抜いて適確な言葉で説明し、指導ができるようになっていきました。
―― アシスタントコーチに就任してすぐ、私は9人の選手一人ひとりの下宿を 訪ね、「体操の神さまの金子先生が、四か月がんばれば日本一を奪回できると言 われるが、やってみないか?」と声をかけて回りました。
金子先生は1958年から、ソ連のスポーツ生理学を参考に、日本のナショナ ルチームの朝のトレーニング内容を変更していました。男子体操競技の選手は毎朝40分から1時間、先生が開発した特殊メニューをこなしていました。
ウォーキング、軽いジョギング、ストレッチ、チューブなどで、ロシア語で 「ザリアートカ」と呼ばれることから、私たちは「ザリ」と略していました。ザリアートカが導入された2年後のローマオリンピックで、日本男子体操は念願の金メダルを獲得したのです。
ところが、当時の筑波大学の男子体操部員は深夜まで酒盛りに興じて、ザリアートカもしていませんでした。私は「明日からザリアートカを復活させるぞ。6時半に体育館に来い」と言い、コーチングをスタートさせたのです。として、練習量を急激に増やしました。4か月後の全日本選手権でトップに登りつめることを前提に、1か月ごとの到達目標を逆算していったのです。
厳しい練習でしたが、選手たちはもともと才能があるので、私の厳しい指導によくついてきてくれました。6月の東日本選手権では第二位、8月の全日本選手権では、13年ぶりに優勝をとげたのです。日本一が決まったとき、私は自分が選手だったときとは違う感動に、涙があふれました。胴上げされたとき、コーチとはいいものだな、と心から思いました。
―― 4か月で日本一を奪回するという目標は達成しましたが、私はだんだん天狗になっていきました。選手に毎日のように怒鳴り、指示・命令・恫喝に偏るようになったのです。翌1981年には、オーバートレーニング(ティーチング)で選手を怪我させ、負けてしまいました。
どうしたらいいだろうと考えていたとき、ジャイアンツの川上哲治さんが、監 督としての人生を振り返った著書『坐禅とスポーツ』が出版されました。
川上さんは昭和34年に監督に就任し、一時期ジャイアンツをBクラスに落と したことがありました。激昂したファンから自宅に物を投げ込まれる状況で、オーナーの正力松太郎さんに辞表を持参したところ、「お前がやらないでどうするか」と叱られ、岐阜の正眼寺の名僧、梶浦逸外老師を紹介されました。
川上さんはバッターの頃、ボールが止まって見える境地に達し、日本で初めて2000本安打を達成して「打撃の神さま」と呼ばれていました。梶浦老師は川上さんを見て、あなたの心は強い。しかし、あなたの心は大きな氷だ。それでは人を率いることはできない。氷を溶かして水にしなさい。水になれば顔も洗えるし、お茶にもなる。水のように、どこにでも行きわたれる柔らかな存在にならないと、人を率いることはできない」と諭しました。
「氷を溶かして水にせよ」というのは、禅の教えです。川上さんは衝撃を受け、一か月お寺にこもって坐禅を組みました。
―― 選手時代に輝かしい実績を残した川上さんが、指導者としてやり直したこ とに、私は感銘を受けました。駒澤大学の先生に「私も坐禅を組みたい」と伝え ると、盛岡の報恩寺の臘八大摂心(ろうはつだいせっしん)を紹介されました。
7泊8日、一日15時間坐禅を組むという強化合宿で、85歳の関大徹老師に よる指導で、全国から墨染めの衣の僧侶が集まっていました。
毎朝4時少し前に鐘が鳴ると、お坊さんたちは凄い勢いで身づくろいして坐 禅堂に向かい、坐禅を組み続けます。私も真似しましたが、結跏趺坐ができずに 困りました。体操選手なので前屈も左右開脚も柔らかいのですが、筋肉が付いて いるので足を組むとバランスが崩れるのです。15分すると痺れ、30分すると 激痛が走り、あと99時間も坐るのかと茫然としました。
何事か悟れたかというと、そんなことはまったくありませんでした。たんに痛みとの格闘でした。当時は、痛みに耐えることが心のトレーニングと勘違いしていましたが、後に全然違うと気づきました。ただ、100時間も座ると坐禅も馴染むもので、朝は1時間坐禅を組み、心を落ち着けてからザリアートカに行くようになりました。
そして翌1982年には二回目の優勝をしましたが、それは偶然のような勝利 で、続く83年、84年は破れました。しかし、85年の京都の全日本選手権は、前半戦で大差をつけてトップに立ち、翌日の決勝は余裕で勝てるところまで実力を付けることができました。
―― 決勝の前日、書店で禅のコーナーに立ち寄ると、『ヨーガ禅道話』という 本が目に留まりました。禅とヨーガにどんな関係があるのだろうと、その本を手に取ったことから、私の人生は変わりました。以降、私のメンタルコーチとしての30余年の実践は、ヨーガに支えられています。
ホテルで本を読み進めるうち、著者は尋常な人ではないと感じました。プロフィールには、佐保田鶴治先生、1898年福井生まれ、大阪大学名誉教授、ご専門はインド哲学とあります。先生は長く病弱でしたが、62歳のときインド人の留学生から簡単なヨーガを習い、驚くほどの健康体になったとのことでした。
桃山でヨガを教えていると記されていたので、私はさっそく京都駅の電話帳を めくって連絡先を調べ、電話をかけました。最初は86歳というご高齢を理由に 断られましたが、私が自己紹介すると「若くて元気な体操の先生が電話してきた なんて、30年間で初めてだ」と驚かれました。先生からヨーガを習おうとする人は、お年寄りか病人か悩んでいる人がほとんどだったそうで、「珍しいからいらっしゃい」とご自宅に招いてくださいました。
先生に「私にもヨーガはできるでしょうか」と尋ねると、「私は62歳から始 めたのだよ。16年も体操競技している人にできないことはない」と、床上体操 という布団の上でおこなうポーズを教えてくださいました。「3か月間、毎日10分続けてごらん」と言われ、私は1985年8月のその日から今日まで、毎日 欠かさず続けています。
当時、私は選手をやめてコーチになってから5年で7キロ太り、71キロになっていました。ところが、ポーズを始めて1か月で体重は3キロ、翌月2キロ、翌々月は2キロと、計7キロ落ちて、現役のときの体重に戻り、以来33年間まったく変わっていません。
いま私は64歳ですが、体操の練習をしていなくても、マット、鉄棒、跳び箱 など、体育の学生よりよい動きがまだできます。これは毎日のヨーガの実践の賜物だと思っています。
佐保田先生には、翌年ご報告に伺ったら喜んでくださり、「西洋の体操やスポーツ科学を勉強した人がヨーガをするのはよいことだ」とおっしゃってくださいました。ところがそのわずか1週間後に、お亡くなってしまったのです。亡くなる前日まで講演なさるほど、最期までお元気に過ごされました。
―― 佐保田先生に教えられたポーズを続けて1年経ったころ、このような簡単 なものだけがヨーガではないと気づくようになりました。ヨーガには、250種類の体操、50種類の呼吸法、1000種類を超える瞑想があるということが分かったのです。佐保田先生の高弟の方々にお尋ねしましたが、そのような方法は知らないという答えでした。佐保田先生のヨーガは健康のためのヨーガで、行者さんがヒマラヤの山中で何千年も前から行ってきたヨーガではありませんでした。
本格的なヨーガの指導者を探して3年後、私は『魂の科学』という翻訳書をきっかけに、現日本ヨーガ療法学会理事長の木村慧心先生に出会うことになります。講演会の後、行者のヨーガを習いたいとお願いすると、快く引き受けてくださいました。以来30年にわたって、私は木村先生に師事しています。
先生は、東京教育大学理学部を卒業後、京都大学大学院で宗教学を学ばれ、イ ンドに渡ってヒマラヤで13年修行し、ラージャ・ヨーガ(王様のヨーガ)と呼 ばれるヨーガのアチャルヤ(導師)となられた方です。
ヨーガでは、自分の心や魂を神さまがご覧になり、準備ができたときに必要な人物や教えを差し向けるといわれますが、私の心は大いなる存在に見ていただいて、この出会いに導かれたのだと感じます。
ラージャ・ヨガでは、体操、呼吸法、瞑想の三つを修行していると知って、私 は1988年暮れから、朝はザリアートではなく、「20分ヨガの体操、15分 呼吸法、30分瞑想またはイメージリハーサル」というメニューを組み、以来3 0年続けていますし、選手たちにも指導してきました。
―― やがて、白井一幸選手(日本ハムファイターズ)をはじめ、プロ野球選手も私のトレーニングを受けにくるようになりました。白井選手は、福島大学まで毎週通っていた時期(1988年〜)もあり、私にとっては修行仲間のような存在です。 以前に放映されたテレビ番組で、白井選手は次のように語っています。
・・・(ビデオより)「ぼくは怪我や病気が続き、克服しなければと考えていた ときに、白石先生がヨーガを応用したメンタルトレーニングを教えていると知りました。始めてみると1週間で嘘のように体がやわらかくなり、元気になって、精神的な面で安定してきました。
トレーニングを始めた年に、守備記録に挑戦する機会がありました。記録を達 成した自分をイメージするうち、本当に達成できると感じて、ぎこちなさやエラーの不安がなくなりました。なぜか東京ドームで花束をもらっている自分の姿が浮かんだのですが、実際に記録を達成したのも東京ドームでした。
メンタルな部分でもヨガは素晴らしいので、これからも続けようと思います。 ぼくは致命的な怪我で何度も手術していますが、ヨーガをすることで目の前のこと を前向きにとらえ、怪我もプラスにとらえられるようになりました」・・・
ーー 私の指導を受けにくる選手には、種目に関わらず、朝40分から1時間、 「ヨーガの体操、呼吸法、瞑想またはイメージリハーサル」のメニューを勧めます。それをやり通してくれた選手は、ことごとく成功し、超一流になりました。
室屋義秀選手は、最初の1,2年はよくさぼっていました。私には長い指導キャリアがありますから、実践していないとすぐわかります。しかし、朝のトレーニングの大切さがわかってくると、続けるようになりました。その成果は、去年10月、レッドブルエアレース・ワールドチャンピオンシップで年間王者に輝くという形で結実しました。
私としては、心理学的なさまざまなテクニック以上に、4000年続くヨーガの智恵を生かしたメニューを組んでいることが、効果を上げていると感じています。
今日お話ししたようなことは、私の著書『勝利する心――東洋の叡智に学ぶメ ンタルトレーニング』に、詳しく記してあります。佐保田先生に教えられた布団 の上の体操や、私のヨーガの師匠、木村先生の解説もあります。よかったら、参考にしてください。
★白石さんはコーチ料は一切受け取っておられません。これまで教えを受けた先生方にもそうして頂いたからと言われておりましたが、そのことにも感銘をうけました。