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清水義久さん出版記念講演会(前編)

       この素晴らしき「気」の世界』出版記念講演 
      〜 DOING だけではない生き方〜  清水義久 

 思いがけなく本を出版しました。天外先生の前書きで上等すぎる評価をいただき、そんな魔法使いを目指していきたい。ただ、完璧であることと完全を目指すことは少し違う。誰でもがいたらないところやだめなところがあり、完璧ではない。人間の存在というものは最初からとても素晴らしいもので、完全に近い何かを持っている。それは成果でも行為でもない。 
 修練をした向こう側にゴールがあって、もしもそこに行けなければ、夢が叶わず、たいしたこともできず、その人はだめな人間なのか。障害を持っている人や病気で苦しんでいる人、この世に貢献できない人は生きている意味がないのか。そこに生きている意味が問われるのだとしたら、夢が叶わないのは不幸であり、年を取るということも罪悪であり、病気も失敗もすべて悪になる。だとしたら、完璧でないということは罪や穢れになってしまう。 
 当然のことだが、すべての人の願いは叶わない。たとえばアメリカ大統領になりたいと思っても誰かは落選する。そうするとそれを目指した人はたった一人の成功者と残りの失敗者たちになる。失敗者たち全員が不幸だとしたら、その考えそのものがずれている。では、どこに価値と意味を見出したらいいのか。この『この素晴らしき「気」の世界』に書いてある。 
 それは、何かをする前にちゃんとゴールが分かっているということだ。DOING(行為)ではなくて、BEING(存在)。そこに命があるだけで、そのオーラは存在の中でしっかりと輝いている。だから価値観をずらす。いまここにある命というのはかなりすごいものなのだ。体に病気や不自由があっても、何かをしなくても、人は一番すごいことをやっている。それは生きているということ。1日1日命がつきる日まであなたの「輝き」は止まらない。若いときは年をとることは不幸だと馬鹿なことを考えていたが、実際自分が年をとったら、反対に若者には負けないと変わってきた。今の私には経験があり、長く生きてきた存在がある。 
 何かをすることで生きる意味が見つかるわけではない。成功することは生きがいの一部だが、そこに照準を合わせたら、気力がなくなったときに何かをやろうとする意欲が湧いてこない自分は取り残されてしまう。その存在のゆとりと生きていることに焦点を合わせると、いろいろなDOINGをさせるあなたがいるのが分かる。だから、二本立てでいこう。 
 一本目の道——トンネルを今の所から掘っていく道。つまり、自分が何かをやるにはうまくいくほうが良いので現実への適応力を作っていく。 
 二本目の道——トンネルを向こう側から掘ってくる道。トンネルの向こうには理想の状態がある。ゴールがあなたに近づく道だ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リオのオリンピックで感動したことがある。 
 日本の柔道男子は前回のロンドンで金メダルを逃したので、切羽詰まったものがあった。このプレッシャーの中、73キロ級の大野将平選手が全部一本勝ちをし、巴投げなど多彩な技で大会初の悲願の金メダルをとった。 
 彼は、素晴らしい言葉、素晴らしい振る舞いを残した。まず、表彰式の壇上でガッツポーズをせず、笑みもこぼさなかった。礼に始まり礼に終わる、敗者を侮辱しない柔道の精神を尊重した姿を見せた。 
 柔道は昔とはルールが変わってきて、有効や技有りのポイントでも勝てるので「一本」にこだわらなくなった。100キロ超級の絶対王者といわれるリオ・ネールは金メダルを取ったのだが、ずっと腰を引いて腕を伸ばして、有効で勝った。勝ったときに彼の組み合わない柔道に会場は大ブーイングだった。 
 大野選手のことばをインタビューで聞いて、私は鳥肌が立った。 
 「自分が求めている柔道は力と美しさがなければいけないと考えています。そして心技体のすべてにおいて他の選手を圧倒すること、これが私の目標です」 
 彼は言った通りに全部一本を取って勝った。これがゴールだ。このとき、人は限界を超える。彼が勝てたのは偶然ではない。人間が完全であることを目指したとき、自らの限界を超え、力を得ることができる。自分が持っているものを完璧にこなしても、DOING(行為)が極限にいっても、最後の限界を超えることはない。自分の器の中で出来ることがあって、その器が満たされるだけにすぎない。 
 昔、他国では柔道はそれほど強くなかった。しかし、外国の選手は体格の違い、筋力の強さの有利性を持って差を埋め、日本はお家芸なのに勝てなくなっていった。だから勝てる柔道を求め、技、スピード、キレを要求し、20年以上も成果と効果を求めるDOINGだけの柔道になっていた。これはある程度うまくいくだろうが、限界を超えない。大野選手はあの年なのに、自分の限界を超えるためにはもっとすごいことを目標にすれば良いのだと気づいている。やっているすべてのことをアートにする、芸術としての道を生きるということだ。それを目指すと、あなたの所作、行為に気が混ざる。 
 美しさは黄金比のフィボナッチ数列のようなもので、フィボナッチの図形と数列からエネルギーが湧いてくる。美しいということはそのままでパワーなのだ。普遍的原理にのっかった、消すことができないパワー、万能の力である。ただ勝つことを目指し効果があることを求め、結果勝てばいい、儲かればいい、やってみなければわからないというのではなく、圧倒的な力でねじ伏せる側に立つ。それは美しさの追求だ。あなたがその立場を取ったとき、その所作は礼になり、負けた人まで巻き込んで納得される美しさがある。 
 あなたの行為と目標、人生そのものがアートに変わるように生きる。勝ちに行くだけの人生は、勝っても美しくない。話は簡単。あなたがするすべての行為に完全な世界をあてはめる。あなたの行為と目標に力と美しさを混ぜればいい。それで願っていることが叶えられてしまう人生に変わる。なぜならそこに美しさがあるからガツガツしなくてもエレガントにゴールの方からあなたに近づいてしまうからだ。要するにトンネルの向こう側から困っている現実の方にゆっくりと掘ってくる。 
  
 般若心経の核心、「度一切空厄」の「度」はさんずいが省略されたもので、元は「渡」。此岸から彼岸へ渡る。「羯諦羯諦波羅羯諦…… 」(ぎゃあていぎゃあていはーらーぎゃあてい…)は「越えていけ」という意味のエールだが、ひとつは、悟れば向こう岸に行けるから頑張ろうという意味、もうひとつは彼岸の保証、私たちは向こう岸に行けるのだから行ったつもりでこの世を見ていこうという意味を持つ。こちらから向こう岸に渡っていく意志、努力と、完全な世界からこの世を見ていこうという二つの方向性がある。私は渡っていくための道具として、船として気のエネルギーを提唱する。(略) 
 天外先生の『「超能力」と「気」の謎に挑む』を読んでいただきたい。あれは我々が超能力を作る時、絶対に読まないといけない本だ。他に『ここまで来た「あの世」の科学』、『未来を開く「あの世」の科学』、『般若心経の科学』にもあなたを幸せにするいろいろな情報やノウハウが理路整然と書かれているのが分かる。実際に人生もうまくいくようになる。 
 いまあなたが現実で仕事とか病気で困っていて、リスクマネジメントの観点で何をやるべきかを考えてDOINGをしている。でも最適化を図ろうと色々なことをやっているのにうまくいかない。それは失敗しているということで方法論が間違っていると思ったほうが良い。何をやったら不幸な現実から逃れられるかという発想だけでは永遠にゴールはない。 
 じゃあ、どうしたら良いのか? 価値観が変わるように世界と我との関係性を大きな視野でもう一度見直すのだ。すると今の現実から何をしたら良いのかというアイディアの他に、力と美しさが必要だったとか、心技体のすべてにおいて上回ることが要求されていたとかに気づいてくる。そして、人間は完全な存在であり宇宙と完全に共鳴できるのだと分かった時から奇跡が始まる。それはあなたが頭の中でパラダイムシフトを自力で行う行為なのだ。 
 あなたは人間がどんな存在なのかを知らない。本当にそれが分かったら、何でもできるあなたがいる。もうひとつ大事なことは、世界、つまり神仏があなたを本当に助けるかどうかだ。 
 あなたが、「良い人間になります」と目指し、人間性を高めるとき、あなたの可能性はそれを目指さなかった時より広がっていく。さらにそうなった時に、神仏はあなたを助ける。なぜならあなたが完全であることを目指し、良い人間であることを目指したのだから。そして、向こうの岸から神仏の船がくる。渡りに船だ。大川でこちらから泳ぐとか、向こう岸に行くために丸太を切って筏を作って漕いで行こうと努力することは重要なことだが、向こう岸から神仏の世界の豪華クルーザーがやって来て乗り込むことができる。冷えたシャンパン付きの奇跡だ。筏を作り続けながら豪華クルーザーを待つ。そして報われても報われなくても気にしない。今日までの筏作りに努力が報われず、時間が過ぎて死んでしまった時に、あなたは何の効果もなかったことをしていただけなのだろうか。違う。あなたは向こう岸に行く、そのゴールが分かったのだ。周りの人にとって何の価値もない筏作りは馬鹿にされるだろうが、あなたは向こう岸を見た。 人はやることだけを評価と目標の対象にしていたら、あるべき姿は出てこない。(次号に続く)

 『この素晴らしき「気」の世界 』清水義久(語り) 山崎佐弓(聞き書き)
文責:山崎佐弓

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