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雲黒斎さんの講演録(後編)

 意識の変容という体験から得た悟りを、軽妙な語り口で伝える雲黒斎さん。人気ブロガーで、著書『あの世に聞いた、この世の仕組み』(サンマーク出版)はロングセラーとなり、全国でトークイベントを展開中です。黒斎さんのお話し会は、深い内容ながら笑いの絶えない楽しいひとときでした。一部をご紹介します。
(6月9日、東京ウィメンズプラザ)


 

 

 

 

 

 

 

―― スーフィーには、こんな物語が伝わっています。
 ……道端で探し物をしている女性に、親切な人が「何をお探しですか」と尋ね
た。「針を落としました」「それは大変。一緒に探しましょう」。なかなか見つ
からない。「どのへんで落としたのですか」「家の中です」。驚いた町の人が
「では、なぜここで探しているのですか」と尋ねると、女性が答えるには「家よ
りここのほうが明るいのです」……
 これは笑い話ですが、ぼくらも同じことをしています。「今」より「未来」の
ほうが明るいから、幸福を未来に見つけようとする。けれど、幸福は「今」にし
かありません。
 後悔や期待はイメージであって、実体ではありません。「いつかの幸せのため
に」というイマジネーションに入り込むと、幸福を実感できる「今」を取り逃が
してしまいます。
 意識の変容を体験して、ぼくの人生はずっと楽になりました。たとえば、先日、
ぼくは息子と滑り台で遊んでいて骨折しました。以前なら「気をつければよかっ
た」「こんな滑り台を放置する行政はひどい」「痛みはいつまで続くのか」と、
痛みを過去や未来のストーリーとつなげ、善悪をジャッジして、苦悩が生まれた
でしょう。けれど今は、痛みは単に痛みになり、苦しみと直結しなくなりました。

―― ぼくらが子どもの頃を振り返ると、悩みがあってもせいぜい自分が通う小
学校の範囲くらいだったのではないでしょうか。おとなになると視野が広がり、
情報化社会ということもあって、世界の裏側の様子もわかります。さまざまな情
報を自分の問題としてとり入れ、ポリシーやプライドが増えるほど、理想に対し
て自己査定し、信念に則っているか自問する深刻さが現れます。
 とはいえ、この体を基準として考えると、使えるエネルギーは限られています。
過去を考慮し、目指す未来をイメージしてエネルギーを配分していると、「今」
にエネルギーが残らなくなります。深刻になるほど、幸せは遠ざかるのです。
 そうお話しすると、「リストラされた上に親の介護が始まった。こんな状況に
ある私は、幸せなんていえますか」という方もいます。けれど、ぼくは逆に問い
たいのですが、そういう状況にある人は皆、不幸でなくてはならないのでしょう
か。
 むしろ、そういう状況にあるときこそ、幸せを感じてほしいのです。あるがま
ま受け入れて、願望(理想)をゼロとするなら、「今」幸せを実感することがで
きます。

―― 時間は切り取れるものではなく、流れていくものです。けれど、出来事を
思い出すときは、その瞬間を切り取り、固定しようとしています。
 例をあげましょう。ある人が青信号で横断中、信号無視の車に引っかけられて
怪我をした。いいことか悪いことか? 悪いことです。搬送された病院の看護師
さんと恋に落ち、結婚した。あの事故はいいことか悪いことか? 一概に悪いこ
ととは言えない。さらに月日が経ち、彼女が隠し持っていた多額の借金が発覚し
た。さて、あの事故はいいことか悪いことか?……
 過去を査定するときは、流れで見るのではなく、事柄を固定して判断していま
す。ぼくらは、深刻さが一つ抜けると、別の深刻さを見つけるのが得意です。何
かを獲得したら、それを失う怖さを併せ持ちます。
 けれど、そもそも過去や未来はないのです。昨日の写真を見せて「これは昨日
だ」と言っても、過去そのものがあるのではなく、今の「記憶」があるだけです。

(会場からの質問を受けて)
―― 「好きなことを仕事にする」ことは、よく誤解されています。ほんとうに
自分の好きなことがわからないまま、相対的な教育の中で、「これがきっと私の
好きなことなのだろう」というところに、のみこまれる人が多いのです。
 ぼく自身がそうでした。ぼくは自分に向いているかわからないまま、デザイン
の仕事に憧れました。そこには「かっこいい」「収入が高そう」という計算もあ
りました。そして業界に入ったのですが、それで100パーセント幸せだったわ
けではありません。
 好きなことを仕事にしているはずなのにストレスを抱えるとしたら、それはほ
んとうに好きなことでないのでしょう。好きなことなら、同僚や取引先がどうあ
れ、環境に関わらず幸せを感じられるはず。けれど、その仕事に就くまでの努力
を無駄にしたくない一心で、ストレスを外部の状況のせいにし、それはほんとう
に好きなことでなかったと認められない人がたくさんいます。

―― ぼくらは、何を欲しているのでしょうか。単純に言うと、いい気分でいた
いのです。「就職が決まったら」「恋人ができたら」「お金ができたら」いい気
分だろうと考えて、そのためにさまざまな努力をしています。
 しかし、ここで気づいてほしいのは、気分はあくまでも気分だということです。
つまり、今どういう状況であれ、「いい気分」を感じていいのです。
 いい気分でいられない理由は、たくさん浮かぶかもしれません。実現すべき理
想が確固たるものになるほど、そこから解離する状況を生きるのは苦しくなりま
す。しかし、悪い気分を引きずって深刻になっているときと、リラックスして物
事を進めるときと、どちらがいい結果につながるでしょうか。深刻さは、自分も
周りも停滞させます。深刻になることと真剣になることは、イコールではありま
せん。
 気分が悪いままスタートするのではなく、いい気分からスタートして、よりい
い気分になればいい。状況が整っていい気分になるのを待つのではなく、いい気
分でいるからこそ状況が整うこともあります。

―― 「幸福」という言葉は、辞書に「心が満たされていること」とあります。
では、心を入れものとするなら、何で満たしたら幸せになれるのでしょうか。
「こうだったらいいな」という理想や条件を詰めこんでも、深刻さが増して、息
苦しくなるだけです。
 では、心を何で満たせば、幸せになるのでしょう。それは、ゆとりで満たされ
ることです。所有欲、執着、財産、経験などが詰めこまれ、ふさがれている部屋
に、ゆとりを入れることです。
 さらに言うなら、悟りとは、部屋そのものがなくなることです。壁も床も抜け
て、天井がなくなって、空間だけになる。そのとき、人生はとても楽になります。
 幸せになるために、理由はいりません。ぼくらは人生のハードルを設定し、そ
れをとびこえられる自分になることで、成長しようとします。低いところから始
まったハードルは、今や棒高跳びくらいになって、その前で茫然としているかも
しれません。
 高いハードルは、乗りこえなくていい。下をくぐればいいのです。

(会場からの質問を受けて)
―― 祈るときは、「こうあってほしい」という強い願いがあることがほとんど
です。祈って叶うときもあれば、叶わないときもある。ぼくの経験では、いった
ん祈ってから願いをあきらめたときのほうが、うまくいきます。
 そこで、「祈ってから手放すなら、願いは叶う」と結論づける人もいますが、
実はそうとも限りません。祈ってからあきらめたとして、その祈りは叶うことも
あれば、叶わないこともあります。そこに因果関係はありません。
 ぼくらは「私がこう関与したから、この結果になった」「だれかのせいで、私
はこんな目に遭った」とうように、過去と未来をつなぎ、因果関係で世の中を見
ています。実はそこにも、脳の働きがあるのです。
 脳科学が解明したところによると、脳には「私」という錯覚を生み出すメカニ
ズムだけでなく、因果関係を自動的に演算するシステムがあります。左脳にある
インタープリターモジュールは、事実を都合よく解釈してストーリーを作り上げ
ます。
 それが因果関係であり、それに沿って人生観が作られます。もっとも、脳の解
析モジュールは万能でなく、物事を因果関係というストーリーとして結びつけら
れないときがあります。そしてそのとき、ぼくらはそれを奇跡と呼ぶのです。
 とはいえ、因果関係は時間の中でのみ現れるものです。絶対の世界においては、
時間は「ない」のですから、因果を語ることはできません。つまり、ほんとうは
奇跡しか起きていないということになります。

―― ぼくらのふだんの意識状態は相対性にあり、祈るときは、現状否定がどこ
かにあります。しかし、悟りの境地は絶対の世界です。そして絶対の世界には、
相対するものがないので、いい悪いという相対的な評価もありません。つまり、
悟りの境地においては、祈りはありえないのです。
 原始仏教を学ぶと、釈迦は無我の境地を見抜いて、「私はいない。あなたもい
ない。つまり、救わなくてはならない誰かは、無我の世界にはない」ことを説い
ています。釈迦から見ると、ありとあらゆるものは完璧です。苦悩も起こるべく
して起こっているだけで、いいことでも悪いことでもないことになります。
 誰かの苦しみを見て「何とかしてあげたい」と祈る人がいても、「誰かが祈り
始めた」ということが起きているだけであり、祈ることがいいとか悪いとかもあ
りません。祈ったほうがいい気分か、祈らないほうがいい気分か、ただそれだけ
のことです。

―― ただし、「いい気分」といっても、フォースとダークサイドがあることには、

注意が必要です。「俺はあいつより優れている」ということで気分のよさを作ろうと

するのは、ダークサイドです。一方、自分が心地よいことによって周りもハッピーに

なるなら、それはフォースです。
 「与えたものが、受けとるもの」というカルマの法則が顕著に表れるのが、こ
の部分です。とても不思議ですが、本来は因果では語れないことなのに、いざ語
ろうとすると因果で説明することになってしまいます。それは、ぼくらは因果関
係を通して、物事を理解しているからです。
 祈りについては、「祈られる人」と「祈ってあげられる私」という意識をもち、
どこか自分が優位に立っているなら、それは「私」にとっての気分のよさを作り
だすためですから、利己的であり、ダークサイドです。一方、自分はともかく
「誰かのために」として祈るなら、それは利他的な祈りです。
 絶対の世界には自他はないので、「私のため」も「あなたのため」もなく、た
だ「私たちのため」しかありません。そしてすべてのための利を思うとき、それ
はフォースになります。なお、それは行為ではなく、意識の状態のことですから、

祈りの形式とは関係ありません。

―― 幸せを実感しているときは、「どうして私ばっかり幸せなのか」とは思わ
ないものですが、苦しいときほど「どうして私がこんな目に?」と思いがちです。
 つまり、気分がいいときは「私」という感覚が薄れ、ネガティブなときほど
「私」という感覚が強く出てくるということです。逆にいうと、「私」という感
覚が強いときは、深刻さというダークサイドのエネルギーが循環しているのです。
 ぼくらは、体をもって「自分」と考えていますが、ほんとうはエネルギーとし
てみんなつながっています。ですから、ダークサイドにある人のそばに行くと、
何をするわけでなくても、ざわざわした気分になるものです。
 いらいらしている人と一緒にいると、自分は関係ないのにいらいらしたり、周
りの人たちが笑っていると、引きずられてくすっと笑ってしまったりするのは、
多くの人が経験しているでしょう。
 要は、いい悪いではなく、自分はどの状態で生きていたいか、ということです。
ぼくがそうお話しすると、「どうしたらいい気分になれますか」と質問されるこ
とがあり、そこにどうにもならないジレンマを感じます。
 「条件なくいい気分になってください」とお伝えしているとき、「どうしたら」
と、相変わらず条件を尋ねられてしまう。そんなふうに、ぼくらは条件をクリア
するという生き方になじみ過ぎていることに、まず気づいてほしいな、と思いま
す。

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