藤田一照さんの講座「六根清浄の打坐」が開催されました。(3月8日、東京ウィメンズプラザ)。六根(「眼耳鼻舌身意」)にそなわる自由自在な働きの回復をテーマに、講話とワークで構成された深い学びの時間になりました。お話のごく一部をご紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

 

―― 今日のテーマ「六根清浄の打坐」の「打坐」とは、いわゆる坐禅のことです。「打
坐」は「只管打坐」という言葉の一部で、「只管」とは「ただひたすらに」、「打」は後ろに続く動詞の意味を強める中国語の助詞で、「坐」とは「坐る」という意味。すなわち、「只管打坐」とは「ただひたすら坐ることに徹する」という意味になります。「六根清浄」の「六根」とは「眼耳鼻舌身意」を指し、感覚器官それ自体というより、「見る働き」「聞く働き」「嗅ぐ働き」……というもっと広い意味に取った方がいいです。
 仏教は基本的に、人間の経験はこの六つの感覚機能の働きで生まれる意識の組み合わせによって織りなされる、と考えます。インドにおいては現世を越えた形而上的なことの方により関心がもたれる傾向がありますが、それに対してブッダは「いまここ」で起きている現実の経験を深く考察し、分析することの方に精力を注いでおり、それが仏教の際立った特徴になっています。
 ブッダの教えを記したバーリ語の「一切に関する経」というお経には、一切とは「目と目が見ること、耳と耳が聞くこと、鼻と鼻が嗅ぐこと……が一切であり、それ以外について語るのは、ないものについて語っているのである」と述べられています。ここからも仏教がすごく現実的な立場に立っているということがわかります。

―― これまでの世界宗教は、現世/来世、娑婆/浄土、地上の国/天国、といった「二世界論」であり、苦しみに満ちた現世から、いかに遠ざかるかを語ります。ですからこれまでの宗教は、苦悩に満ちた現世が反転した理想的世界への憧れをかき立てるため、天上的な感覚を醸し出す建築物や装飾物、音楽といった芸術、聖職者、聖なる言葉を書きとめた聖典、特別な意味をもつ聖地といったさまざまな宗教装置を作り出してきました。要するに聖と俗という二つの世界をつくって、俗から聖へと移動するのが宗教の基本モデルとなってきたわけです。
 仏教にも二世界論的なメッセージはあることはありますが、本質的なところでは仏教は現世の経験を深く理解することを重視し、俗から逃げ出すのではなく「今ここにある自己」を変革するという発想をもつ点がユニークです。なぜ苦しみがあるのか、この苦しみはいったい何であるのか、その理由やメカニズムを深く観察して見きわめることによって乗りこえていこうという、どこまでも現世に足を置くスタンスが他の宗教に比べてはるかに強いのです。
 ブッダはバーリ語のお経の中で、六根の働きの根本的な歪みを治す方法を当時の言葉で伝えており、そのプロジェクトの方向性の一つが「六根清浄」です。六根の働きは、インクジェットプリンターに喩えられます。あらゆる色を印刷できるプリンターも、その全ての色がプリンターの中にあるのではなく、わずか4種のインク・カートリッジしかありません。そのインク・カートリッジにあたるのが六根です。そのカートリッジの調子がおかしくなれば変な色のものが印刷されて出てきます。
 ぼくたちが「いま確かに見ている」と思っている世界も、もしかしたらインクの出し方のプログラムが狂っているかもしれないし、インクが充分に出ないカートリッジや出過ぎているカートリッジがあるかもしれない。「ちゃんと見た」「確かに聞いた」と言っても、アプリやカートリッジに問題があったら、正しくプリントアウトされないのです。「羅生門エフェクト」という言葉がありますが、同じシチュエーションにいても、人によって見えている世界が違うのは、そのためです。

―― 仏教は「いまここ」で起きている経験を深く細やかに内観することを勧めます。ぼくたちはいろいろなことを感じたり考えたり行動したりしていますが、「ほんとうにそれは正確なのか?」という問題意識に立ったラディカルな考察や分析がたいせつなのです。そこまで突きつめて考えるのは、相当な苦境に立たされたときくらいかもしれません。しかし、人生はそもそも「困ったこと」の連続です。仏教はよく「苦」を説きますが、「苦」というのは必ずしも「苦しみ」という意味よりも、「困ったこと」「思い通りにならないこと」と言った方がより「苦」の原語のニュアンスに近いです。
 「困ったこと」の代表は、「老病死」だといえるでしょう。若さを保ちたくても人は老い、健康でいたくても病気になります。心臓が鼓動し肺が呼吸するごとに、確実に死に近づ
いていきます。困ったもんです(笑)。人間は「困ったこと」を克服しようと、寒さに対して火を起こし、夜には闇を照らすため照明を発明しました。思い通りになるようにしようと工夫することは生物としての本能ですが、どこまで行っても老病死が消えるわけではなく、むしろそれらを少し遠ざけることに成功したと信じこむことで、その覚悟ができていない人が逆に増えているのではないでしょうか。

―― ぼくはアメリカで仏教を指導しているうちに、彼らの見かけ上の熱心さには大きな問題があることに気づきました。彼らは仏教を実用的なツールとして使って「困ったこと」を解決しようとします。ハンマー(キリスト教)で解決できないならドライバー(仏教)を試してみようという発想です。しかし、仏教のアプローチは、「困ったこと」の除去よりも「困ったこと」そのものの解明にあります。もっと言えば、その困ったことを抱えているこの自分そのものの解明を目指しているのです。アインシュタインが「問題を創りだしているのと同じ考え方のレベルでは、その問題は解決できない」と言っているように、その問題がその人の生きるパラダイムから生じたものなら、それと同じパラダイムの中で解決することは不可能です。
 仏教は、在家とか僧侶とかに関係なく、凡夫から仏へのパラダイムシフトを勧めて
います。そしてその一つの側面が、六根清浄なのです。
 「六根を清浄にする」とは、自我によってゆがめられた感覚器官の働きを、本来の働きに直すことです。執着や煩悩によってデータがゆがめられ、そのゆがめられた世界や自分をほんとうだと思いこみます。本当のことがわからないと人は偽物を本物だと錯覚します。われわれは決して客観的な世界を見ているのではなく、自分を投影して見ているというのが仏教の説くところです。
 そのような仏教の立場は、われわれが常識としている世界観に反しており、カウンター・インチュイティブ(反直感的)であるといえます。たとえば、ぼくらの周りを太陽が動いているという天動説はインチュイティブであり、感覚的に見えているとおりなので受け入れやすいのに対して、地動説はどう見てもカウンター・イントゥイティブです。しかし、実際は、地動説のほうが天動説よりも宇宙のしくみを正確に説明しています。

―― 人はたいてい、「私/私以外」「主観/客観」という分離した二元的パラダイムで世界を見ています。どう見てもそう見えますもんね。「私とは違うものが、私の外側にある」という感覚です。「ものが見えるのは、光が反射したものが私の目に入り、網膜にうつり、視神経から脳に伝わって解読される」という説明で納得している。このモデルには、「じゃあ脳に届いた電気信号をリンゴだと見ているのは誰か?」など、突っ込みどころがいろいろありますが、日常的にはそこまで突きつめて考えません。しかし、仏教は、こういう知覚モデルを仮説(けせつ 便宜的に仮に設定したもの)にすぎないと見なします。「私があって、私の周りに世界がある」という感じ方は、言葉や思考によって後から整理した地図であり、現地ではない。「無心」が見ている世界は、まったく違うのです。
 たとえば蝶や猫の見ている世界が、人の見ている世界と違うように、それぞれの人がそれぞれの都合でそれぞれの世界を見ています。六根清浄というのは、地図作りを一時的にやめて「なま」のあり方の方に近づいていくことです。人間である限り完全に清浄になることは無理でも、そちらに向かうプロセスを歩むことはできます。六根汚染の道か、六根清浄の道か。いいかえるなら、凡夫路線か、仏路線か。そして仏教は、清浄の道を行くと
人生が楽になりますよ、だからそっちの方がいいですよと勧めています。

―― 仏教では、「思い通りにならないこと」を他の何かのせいにするのではなく、当人の知覚の仕方が現実からずれていて、そのずれの分に応じて苦しく感じるのだ、と考えます。
 たとえば、仏教では「貧乏のせいで私は苦しんでいる」という問題の立て方をしません。「貧乏を苦にするような心がまずあって、その心が貧乏を作り出し、それによって心が苦しんでいる」と捉えます。もちろん、貧困という状況を改善することの重要性は否定しませんが、まずは現実の体験のカラクリを解明しようとするのです。貧乏を苦にする心が消えていなければ、たとえ状況が改善されても、その心根は再び別なことを理由にして苦しみを作りだすでしょう。
 アメリカで仏教に興味をもつ人は、社会的に成功した人が多いです。「これを獲得したら幸せになるだろう」と自分を幸せにする項目をリストアップし、一つ一つ達成していってほとんど完成に近づいたのに、なぜだかそれほど幸せを感じられない。じゃあ、瞑想や坐禅をしたら幸せになれるかもしれないと、それをまた「To Do List」につけ加えるわけです。ただでさえTo Do Listをこなそうとして苦労しているのに、これでますます忙しくなる。
 そんな人たちに「必ず悟れるプログラムを示してください」と頼まれると、ぼくは「そんなプログラムは書けません」と答えます。「悟れるプログラムがほしい」という心根自体、そんなプログラムを想定する考え方自体を変えるのが、仏教の修行です。

―― 六根が清浄であるためには、感覚器官が寛いでいることが大切です。感覚器官は、「自
分を幸せにするものを見つけなくては」というエゴのアジェンダを押し付けられて、そのプロジェクト遂行に向かって酷使されているために、つねに緊張状態にあります。だからと言って、リラックスをエゴのアジェンダにしてそれをめざすと、かえってリラックスは遠ざかります。リラックスはこちらからつかみに行くものではなく、向こうから来ていただくものだからです。
 緊張型の努力によってほしいものを手繰り寄せてきた人は、リラックスも同じようにして手に入れようとしますが、それは不可能です。幸せも同じで、幸せになろうという努力そのものが、幸せを遠ざけている場合が多いのです。
 まず、あごの緊張を手放すワークをしてみましょう。人はストレスがあると歯を食いしばって耐えようとします。その反対に、あごをゆるめると全身のリラックスにつながります。
 割り箸を奥歯で挟んで、ふつうに呼吸してみましょう。上あごと下あごの隙間に、息
がすーっと入っていくイメージで呼吸しながら、どんな感覚が生じるか、そして、その感覚が腕や胴体にどう広がっていくかを、感じましょう。瞑想は、いま何が起きているかにはっきり気づくことであり、こちら側から何かを起こそうとすることではありません。
 あごがゆるみ、全身がゆるんでいくのは、体に本来備わっている自己調整プログラムが働くからです。感覚を目覚めさせると、体というシステムにそなわる智慧が作動し、バランスのとれた状態におのずと戻ろうとするのです。

―― 「仏性は修行の果てに獲得するもの」というイメージがありますが、ぼくは「仏性をつかって修行する」というのが正しい理解ではないか、と思います。つまり、まだここにない仏性という凄いものを向こうに理想として置いて、その獲得を目指すのではなく、いますでにここにおいて生き生きと働いている仏性と親密にリンクしていくことが修行なのです。
 仏性という働きは、いまここに来てくれているのに、ぼくたちは「我」という壁を作ってそれをシャットアウトしようとしています。我は「俺は俺だけで成り立っている」と愚かにも思いこんでいますが、そんな傲慢な我ですら、仏の働きで成り立っていて、ただそれを知らないだけなのです。
 「寛ぐ」とは、この壁を緩めて薄くしていき、我を仏性に明け渡していくことです。外から力を加えて他律的に変化を起こし、理想や目標を達成するのではなく、いま起きていることをそのまま素直に味わうことで、変化が自然に起きてくる。それを縁起の働き、慈悲の力と呼びます。
 我という壁の内側に引きこもったままで、窓から雨を眺めながら、雨について考えて論文を書くのではなく、外に出て雨の中に身を置き、自ら濡れることによって雨を直接に知る。仏教は、そういう人生の知り方が大切だと教えます。

―― 眠りこんだ感覚器官を目覚めさせる訓練の一つが、深くリラックスすることです。坐禅で半眼になるのは、美醜や損得を判別しようとして一点に集中するといった眼を緊張させる使い方を一時的に止めるという意味があります。目の周りの筋肉の緊張をゆるめるには、心をゆるめる必要があります。筋肉と心の働きは、表裏一体なのです。
 何かを能動的に見ようとする眼ではなく、向こうから見えてくるものを受け入れるような受動的な眼。見ようとつかみにいくのではなく、見えてくるものを無条件に受け取るように眼を使うことが、坐禅で「眼を清浄に使う」という意味です。凡眼から仏眼へのシフトですね。
 坐禅の半眼は、まぶたを完全に上げるのでも下げるのでもなく、落ち着いた心の表現として落ちつくべきところに落ち着くという形で自己調整されます。このとき、視線はひとところに焦点を合わせるのではなく、視野の周辺も中央も左右も後ろもすべて均等に見ている感じです。
 何かを見ようとする眼は、いわば緊急事態のためのものです。それが必要な時にはそういう状態になってもいいのですが、問題は、緊急事態から平常状態にもどれなくなくなっていることです。
 体は、自分が命令してロボットのように動かしているのではありません。随意筋などではそういう面もありますが、じつは内臓や深層筋など意思ではコントロールできないものの方がずっと多く、そちらの方が生きるということのベースになっています。ちょうど意識と無意識の関係に似ていて、自分の指令によって動かせているのは、ほんの氷山の一角です。
 意識が届かない身心の深層に入っていくには、力ずくではだめです。緊張を緩めて自己を開いていくことが大切で、その一つの側面が感覚を目覚めさせるということです。

―― では、ストローを使ったワークをしましょう。タバコのようにくわえ、鼻から息を吸い、口から吐いてください。その前後で、1分間の呼吸数がどう変わるか、数えてみましょう。
 ストローのせいで吐く息が細くなると、呼吸の中枢を担う脳幹にその感覚が伝達され、呼吸におのずからの変化が起きます。これは、自分が「こうなれ」と言って命令してコントロールして変えていく「我」の仕事ではない、自己調整能力によるものであり、「無我」の仕事です。我が鎮まったときに展開するこの世界は、我の世界より、もっと生き生きしたダイナミックな世界です。
 道元には「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆくとき、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」という言葉があります。「我」のシールドをはずして、大自然の働きに身心を委ねて、それに従って生きていくところに、安楽の浄土があります。
 理屈ぬきでハートに響くものを素直に感じていると、体の内側からなんとなく催されるものを感じられるようになります。ぼくたちは成長の過程で、あくび、ため息、しゃっくり、尿意、便意、といった「野生の呼び声」を抑圧し、外にある基準に合わせるよう躾けられます。同じように、二世界論的な伝統的宗教は、体がスピリットを閉じこめていると考え、体を蔑視し、しばしば体を痛めつける苦行に走りますが、それはもう過去のものとして、もっと積極的、肯定的に身体を活かしていく方向へと変わっていかなくてはなりません。六根清浄というのは身体の復権でもあるのです。
 おのずから起きてくる変化を抑圧せず、力をいれず、心を費やさず、力まず、自ずからなる働きにお任せした状態でいること。「わが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れ
て」というのは、その逆ばかりを訓練してきたわれわれには実際にはなかなか難しいのですが、「これに随いもてゆくとき」、つまりそれを修行として誠実に取り組むとき、人が安楽の極みで仏になる道が開けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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