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畑田天眞如さん

 

 

「いのちをつなぐ」の講演会は、畑田天眞如さんを会員の内田勝康さんが護摩焚きなどのスライドを見せて下さり、ご紹介をして頂きました。 

 (2015年4月22日 東京ウィメンズプラザ) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 畑田天眞如さん―― 大正15年、岡山生まれ。昭和24年、京都・鞍馬山にて修行。昭和55年得度し、さらに京都・醍醐寺にて伝法勧請を受け阿闍梨となる。昭和63年から、中医学を学び始める。安倍晴明の流れをくむ、天社土御門神道を阿部山にて斎行。天眞如教苑主として、地球安泰、皇室繁栄を祈り続けている。 

 

 生まれる前のことを、私ははっきり覚えています。神さまに「学んできなさい。怖がることはない」と告げられ、男の神さまから女の神さまに預けられて、それから母に宿りました。母のおなかの中では「こんな窮屈なところで何をするのだろう。何を学ぶのだろう」と感じました。私は母の心の動きがわかりましたし、母の言葉も他の人の言葉も、すべて聴いていました。 

 あるとき「大変なことが起きる」という胸騒ぎがして、しばらくすると外に押しだされました。生まれるときはとても苦しく、ただ「学んでこい」という神さまの言葉だけが頼りでした。その後の人生でも、「いまここで何を学べばいいのか」ということが、いつも頭から離れません。 

 

 私が生後10か月のとき母は亡くなり、父方の祖母が私を育ててくれました。 

祖母はものごとをよく考えて、私に接してくれる人でした。 

 母がいないことをさみしいと思ったことはありません。いつも、亡くなった母の姿が見えていたからです。私がまちがったことをすると母は悲しい表情をして、いいことをすると嬉しそうな表情をしました。ですから、友だちはお母さんから離れると姿を見ることができないと聞いて、むしろ気の毒に思ったほどでした。 

 

 赤ちゃんのときのことも、よく覚えています。「おしめが汚れた」「お乳がほしい」と泣いても返事がないと、よけいに大きな声で泣かなくてはならず、その不安はたとえようもありませんでした。 

 私が子育てしたときは、赤ちゃんが泣いてもすぐ行かれないときは、「お母さんはここにいるよ。片づけがすんだらすぐ行くからね」と声をかけるようにしました。すると赤ちゃんは泣きやんで待ってくれます。そこで、そばに寄って「ありがとう、お母さん助かったよ」と声をかけると、赤ちゃんは喜んで手足をふるのです。 

 赤ちゃんはすべてわかっています。お子さんを見ると、どのように育てられたかわかります。ペットを大きくするような感じの、いまごろのお母さんの手抜きの子育てを見ると、日本はこれからどうなるのか、嘆かわしく思います。 

 

 私は証券会社に勤めていたことがあります。ある日、上司が私たちに「貴女たちは消耗品だ」と言われました。「私は学ぶために生まれてきた。人生は消耗品ではない」と思ったので、三日後に辞表を提出しました。その後、私はさまざまな修行をしました。 

 

 昭和24年、婚家でいろいろな苦しい事、自分ではどうにもならない事があり、私は乳飲み子の娘を連れて、鞍馬山に向かいました。自殺しようと思ったのです。明け方、「馬鹿者、親の心がわからぬか」という大声がして、驚いて見上げると、大きな男の人が立っておられました。その方は「明日の朝もう一度姿を現すから、筆と紙を用意して持て」と言われ、お姿を消されました。 

 翌日、その方は「予は魔王尊(サナートークマラ)なるぞ」「神は必要な人間かそうでない人間か、いろいろの苦労を与えてみるものだ。そのような親心がわからぬか。なんでも自分で生きているように思っておるが、よく考えてみよ」と言われました。 

 魔王尊に「だれにも教えていないことを教えるが、お前は何を代償に出すか」 

と問われたので、私が「寿命を縮めてもいい」と答えると、「おまえは昭和55年3月21日に(あの世に)帰る」と告げられました。そして、私は魔王尊の教えを半紙20枚ほどに書きとめました。 

魔王尊に「(あの世に)帰る」と言われた日の前日、私は教えを聞きに集まっていた方たちに、「魔王尊との約束があるので、私は明日どうなるかわかりませんが、これからも教えたことをしっかり実行してください」とお話ししました。家に帰ると、娘ふたりに、私がいなくなっても父親と生活できるように、家の中のことをすべて伝えていた事をたしかめて、私は神さまにまかせて横になり、10時、11時と、時計の打つ音に耳を澄ませました。3時になって「まだ私は生きている」と思いました。3時半の音が鳴ったとき、東側の障子が、まるでお日さまが上ったかのように金色に輝いて、毘沙門天様が現れました。毘沙門天様は「よく真理を見きわめてくれた。これから手足になるぞ」と言ってくださいました。 

 このことがあって、私はそれまでなんと守られていたのだろう、と感じました。「昭和55年3月21日に帰る」と告げられたということは、「その日までは生きる」という保証書がついたようなものです。その間には、手術を5回して、目も見えず、声も出なくなり、耳も聞こえなくなったこともありました。医師からは二度と元にはならないと言われましたが、私は慌てませんでした。 

 人は生まれてからずっと、いつ死ぬかわからない状態にあります。けれど、神さまは、私を大切にしてくれていました。「学んできなさい」という約束のために、ずっと守ってくれたのだと気づいたとき、ありがたくももったいなく思いました。 

 

 私はずっと病弱でした。だから実感するのですが、自分の身体のくせを最もよく知っているのは、自分自身です。人はもともと、健康で長生きできる素質をもっています。その素質を傷つけないように、ただのほほんと生きるのではなく、気をつかって、心をつかって、生きることが大切です。 

 「自分は生きている」と考える人が多いですが、実際は「生かされている」のです。人は、明日のことひとつわかりません。呼吸も、身体がひとりでにしてくれます。身体の中の細胞がいろいろ活動しているから、私たちは生きているのです。そのためには、体の手当て――たとえば、お風呂に入って浄める、身体がよろこぶ食べものをいただくなどの、気遣いが大切です。食事は、自分がほしいものではなく、身体の細胞たちがほしがっているものをいただくのが、私たちのつとめです。 

 病気は、私たちに注意を呼びかける赤信号で、必ずしも悪いものではありません。その警告に注意するか、知らん顔で過ごすかは、心のありかた一つです。 

 

 私はこれまで、4,5回、自殺しかけたことがあります。そのたびに命をとりとめて、今日まで学ばせていただいたことを、とてもありがたく思います。 

 人間は、この世に学びにきたのです。学ぶのは、知識ではなくて、知恵です。 

学校では知識しか教えてくれません。知識があるのが賢いのではないのです。心のあたたかさ、人の裏表が読めること、それが賢さだと思っています。 

 

 古事記には、とても深い知恵が隠されています。そして、日本語の音にも意味があります。「あいうえお」は母音(イザナギノミコト)、「わゐうゑを」は半母音(イザナミノミコト)です。 

 喜びがあるのも苦しみもあるのも、いのちがあるからです。イザナギノミコトは「話す心」、イザナミノミコトは「聞く心」をあらわし、対になっていて、私たちはその両方をもっていることを、古事記は教えてくれます。 

 日本人はもともと、深い知恵をもっています。それは、みんなを助けて、みんなと仲よくする知恵です。自分は辛抱しても、人さまにはいやな思いをさせない、顔を見せないという魂を、私たちはもっています。知識を詰めこむだけでなく、そんな深い知恵を掘りおこして、ご先祖さまに恥ずかしくないように生きていきたいものです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         『命をつなぐ』著者 畑田天眞如 桃青社 コスモの本 

              日本の太古の智恵が地球を救う 

 

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