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中山博さん講演録

 いにしえの英知「あわうた」を現代によみがえらせ、国内外でご活動している中山博さん。中山さんの「あわうた」とお話を伺い、参加者で「あわうた」を歌う、体感型ワークショップが開催されました。チベット訪問の様子も紹介され、世界に響く「あわうた」に参加者は魅了されました。(東京ウィメンズプラザ、2016年9月15日)

中山博さん:昭和16年生まれ。松下電器産株式会社に約10年勤務後、原因不明の体調不良により退職。10以上の職業・事業を経験する中で「あわうた」を知り、独自に歌い始める。20年以上「あわうた」を歌い、全国行脚をおこなう他、チベット、モンゴル、ウズベキスタン、スペイン、トルコ、ポルトガル、アメリカなど、海外での活動も広がっている。対面で歌った相手は延べ数万人以上。DVD「中山博 あわうたの心」には「あわ48音」の覚えやすく歌いやすい歌い方が収録されている。公式サイトhttp://awauta.weebly.com

 

「あわうた」とは
「あわうた」は48音からなる5・7調の歌で、その効用は日本最古の歴史書といわれる「ホツマツタヱ」に、次のように紹介されています。
――あわの歌を葛垣打琴の音にあわせて歌うと、自ずと声も明らかになり、五臓六腑や魂の緒までが四十八音の神々の言霊の霊妙な力によって整うのです。心身の神気・霊気の巡りが良くなり、病にもかからなければ、長寿を得ることができます。――
「ホツマツタヱ」は、クニトコタチによる建国からイザナギ、イザナミの時代を経ての出来事を「古代やまとことば」で綴った一万行に及ぶ叙事詩で、第12代景行天皇に献上されたとされます。イザナギとイザナミの時代、言葉の乱れと心の乱れを整えるために広められたのが「あわうた」であり、この「あわうた」によって人々の言葉、健康、心が整い、民を安らかに治めることができた、と伝えられます。
 「古代やまとことば」は、単音語(一音一音が意味を持つ)で、一音一音に神が宿る考えられています。「あわうた」は、「あ」(天地の天、父)から始まり「わ」(天地の地、母)で終わる中に、森羅万象すべてが含まれています。現代でも、「あわうた」を歌うことによって気持ちが明るくなり、リラックスして、インスピレーションが得られ、心身が健康になるのを体感する人たちがいます。
(参考:中山博オフィシャルページ、宮崎貞行著「アワ歌で元気になる 驚きのコトタマパワー」)

 

ワークショップのはじめに、中山さんが「あわうた」を歌ってくださいました。荘厳な響きに包まれると、会場はまるで次元が切り替わったようでした。「あわうた」を歌っているとき中山さんに下りてきたメッセージも、紹介していただきました。現代語訳は次の通りです。

「ありがとう ございます この身は この地の 神の戸 開く その時を 同じうして 繋がりたり 二十数年の時 ただただ ひたすら この音 響かせ 今この時 迎えました

大きなる時を いただきまして いささか お伝え申します このあわ歌 長きに渡り 伏せられて 皆々様から 離れておりたるが この身を通し はるかな時 隔てて ようよう ここにあり ご承知の通り 全ては 振動する中に あります それぞれの思いは その身を 震わせ 怒りは激しく 嬉しきは たおやかに その大きなるは この地球を離れ 宇宙へと 参ります この地球の ただいまの 揺らぎ 風 温度は 激しきを 現しております この事 続けて参るは 皆々様も この地球も 宇宙も 激しき時と 成り行きましょう このあわ歌を その身に しっかり据えて ただただ 響かせ行けば この激しき波を 鎮め行き それぞれの安心へと 参ります このあわ歌 それぞれの音  真っ直ぐに 平らかに 響かせて  平らかなる この地球 この宇宙へと  皆々様にて あらためて いただきたし 進み行く全ては この地の人々の 思いなれば 先ずもって 皆々ひとつへと 定めて下され新しき 嬉しきへと 参りましょうぞ」

 

―― 「あわうた」と出合ったのは1994年で、その後の半年くらい、私は無我夢中で過ごしました。人の体を治したり、その人の事情がわかったり、何でもできるようになったと思っていたら、その能力はパッと消されました。いまはただ、歌っているだけです。
 22年ほど歌ってきて、歌い方はそのときどきで変わってきています。最初はただ声を発しているだけでしたが、やがて五七調のリズムをつける歌い方になり、そして音程を上げていく歌い方になりました。いまは一音一音のばし、ボーンと響かせるような、原点に返った歌い方をしています。
 以前は、私ひとりで歌うようにというメッセージを受けていましたが、2009年4月15日、「これよりこのこといっさいをなしとなして、新しく道ひらく」と告げられ、だれもが歌っていいことになりました。私の歌い方はサンプルであり、みなさんにはどんな歌い方でもよく、ご自分の響きを出していただきたいです。
 「言霊とどう違いますか」というご質問を受けることがあります。言霊とは、言葉にそれを発する人の意が乗ることではないかと思います。同じ音でも、驚いて「あ」というときと、下心があって「あ」というときと、ぜんぜん違う音になります。
 いっぽう、ただひたすら歌うときは、その音に本人の意は乗っていないと思います。では、何が乗っているのでしょうか。何かが乗っているのか、ほんとうに何も乗っていないのか、わかりません。ただ、「あわうたを歌うときは何も思わず、ひたすら音を出すようにしてください」と、私はみなさんに申し上げています。
―― 「あわうた」と出合って5か月ほど経った1994年12月、とつぜん手が動きだして絵を描き、「こういう家に入れ」というメッセージを受けとりました。

そして翌年1月なかば、「この地が動く」と告げられました。
 メッセージにぴったりの家を見つけて引っ越したのが、1月17日、「あわうた」を歌い、朝食のときテレビをつけたら、阪神大震災のニュースが映しだされていました。その日は、「見ておきなさい。これは人災だ」というメッセージを受けて、なにもわからないまま、ずっとテレビを見ていました。本来は、あれほど人が亡くなったり火事になったりするものではなく、ただ「戸が開く」という意味だったそうです。
 「あわうた」を歌い始めて10数年間は、メッセージに導かれるままに、ひとりで全国を回っていました。最初は、東京23区を一つの区につき二か所ずつ、一か月以内に歌って回るよういわれました。それから、熊野の雨降山など、日本神道でたいせつなところなども廻ってきました。
 歌いに行った先では、「光が来ている」という感覚くらいで、何か特別なことが起こるわけではありませんでした。ただきれいな夕日を見ながら帰るようなことが続くうち、たいせつなのは「何もない」ことだ、と気づきました。私が歌うときは、「何もない」ところに、みなさんをお連れしているのかな、と思います。
 見えたり聞こえたりする方は、そこにつかまったきりになることも多いようです。けれど、それは本質的なことではないでしょう。「何もない」という心境になるには、実際に体験しないと難しいかもしれませんが、人間は、ほんとうは「何もない」世界を共有できるのだと思っています。
―― 体をふくむ、すべてのものは振動しています。思いが変わると、体のなかの細胞の振動も変わります。あまりに激しい振動、たとえば怒りや不安の振動が続くと、病気の原因にもなります。「あわうた」を、澄んだ音で平らかに、すーっと歌えるなら、その人の振動はゆるやかでしょう。
 振動という意味では、地球じたいも揺れています。私たちの思いが振動として地球に伝わり、地球の揺らぎといっしょになって、その揺らぎが激しくなるほど、暴風や地震がもたらされることになります。
 これからの時代、私たちは、自分から出る振動をゆるやかにおさめることが、よりいっそうたいせつになってきます。昔は戦った相手を神社に封じこめ、おまいりすることによって鎮めてきました。けれどいまは、宇宙レベルで振動が激しくなっていますから、私たちはよほど心をひとつにして、振動をゆるやかにしていかなくてはなりません。
 「あわうた」は、慣れてくるにつれて、歌いながら他のことを考えてしまったりしがちです。すべて歌って15分ほどですが、自分の心をきちんと保てるか試すには、よい方法だと思います。
 「あわうた」は単純ですし、どなたにでもできますが、やればやるほど、もっともっと、というところが出てきます。呼吸法や瞑想に似た効果もありますが、それを目的としているうちは、「ただ歌う」という境地になりません。ただひたすら歌ううちに、心の中が調って、毎日が安心になっていくのです。


 

 

 

 

 

 

 

 

―― これまでは、お釈迦さまなど宗教的指導者の教えを実践するなら、問題は起きないはずだ、と考えられてきました。しかし、いまの社会を見ると、その考えは果たして正しかったでしょうか。
 私たちは、すべてをとりしきる存在に「神」という名をつけました。その存在、または「神」は、精妙な振動を私たちに送ってくる。しかし、人間の波動がじゅうぶんに高くないので、人間はそれを受けとめきれない。だから修行して自分を高めよう。……というのが、これまでの考え方です。
 けれど、もしそうだとしたら、受けとめきれない人間に、受けとめられない方法で伝えようとした側にも、過ちがあるといえないでしょうか。
 輪廻の中で、自分が意識できないところまで背負ってこの世に生まれ、わけのわからないまま生きて、さらに上乗せされたカルマをもって、あの世に還る。それを延々と繰り返してきたことについては、たしかに、私たち自身にも責任があります。
 けれど、そもそも仕組みじたいが間違っているのですから、私たちの罪も仕組みの過ちも、ともに帳消しにしなくてはなりません。
 私は「あわうた」を歌いながら、「この仕組みはおかしい。いったん帳消しにしてください」と申し上げつづけました。すると、2009年4月15日に、こんなメッセージを受けとりました。
「かたじきなきことなり 多くの皆々 この地にありて 永きに渡りて 重き荷背負いて進みて来られること まことに ご苦労でした ここに我ら その大きなる元となりておるもの お詫び申すなり」

―― 人間はもともと、まことを持っています。とらわれやこだわりを外してみると、ほんとうの自分に宿るものが見えてきます。私の受けたメッセージには、こうあります。
 「みなみなそれぞれ、ご自分の光をかざして進まれよ。何ごとも頼る必要なしぞ。しっかりこの今見つめて 生き生きと楽しく 嬉しく、参りてくだされ」

いままでは、神に仕えることで神に助けていただくという、ピラミッド型の社会でした。けれど、おおもとと一つになり、ほんとうの自分に還るなら、自分自身が神といっしょになりますから、神に頼る必要がなくなります。
 自分の「思い」によって、いまここに、さまざまなことが起きている。それらを見せられるたびに、自分の「思い」を確認しながら、区別・差別することなく、ただ「わたしはわたしです」という生き方を貫いていくことが、まことの道へ繋がって進んで行けるのではないかと思います。

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